あの日を境に

巨大災害によって人生が一変した人々の群像劇

(24)責任感とガッツ~江藤美智子の遍路道

江藤香織は千葉県M市の実家で、絵葉書を手にしていた。差出人は江藤美智子。もう、5年ほど顔を合わせていない義母からの一葉は例年通り、四国の何とかと言う寺の写真が添えられていた。

 

「もう、いいのに…」。正直なところ、香織は今後、美智子らの元に戻る気はない。あの震災が夫孝則の命を奪って以降、江藤家とは疎遠だ。当初は余震や、原発事故による放射性物質が息子涼太に与える影響などを挙げて実家に戻ったが、夫という鎹(かすがい)を失ったことによる距離感は埋めようもなかった。

 

「ただいまー」。小学2年になった涼太が元気いっぱい、学校から実家へと駆け込んできた。そしてすぐ、近所にある消防分署へと飛び出していく。涼太の今のお気に入りは消防車の出動シーンだ。突然にして帰らぬ人となった孝則への思いが消えることなどあり得ないが、自分たちはもう、東北のK市ではなく、ここに足場があるのだ。

 

「実は孝則の行方が分からない。津波が来るので避難誘導に出て行ったまま、消息が途絶えた」

 

あの大地震の翌日、K市の北にあるI市の官舎に住んでいた香織は、差し入れを持って訪れた孝則の勤務先、I警察署で義理の伯父の良彦にそう告げられた。確かに、とてつもない揺れではあったが、孝則の普段の詰め所は内陸部の交番だ。津波に呑まれる可能性など念頭になかった香織は思考が停止し、その場にへたり込んだ。

 

俗に「警察一家」と揶揄されるように、警察組織の横のつながりは非常に強固だ。災害時に限らず、大事故や長期にわたる事件捜査の場合、署の上階にある道場などで寝起きする夫のため、奥さん連中が着替えや差し入れを持ち寄るのが慣例だった。今回もそれに倣って、おにぎりを持ってきただけだった。

 

部下の、甥の生死が分からないと、何も知らないでいる配偶者に伝える辛さ。良彦が、おそらく一睡もしていないであろう青白い顔のまま、言葉を絞り出したのが分かった。1歳になったばかりで、背に負われた涼太が泣き叫ぶ声ばかりが署内に響いた。副署長さんに警務課長さん、孝則の直属の上司に当たる地域課長さん。同じ官舎に住む見知った顔は皆、うつむいたままだった。

 

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孝則はさらに翌日になって、沿岸部にある空港近くの民家の敷地で見つかった。オレンジ色の誘導棒を握り締めたまま、泥の中にうつぶせで倒れていたという。近くには、もう1人の同僚と一緒に乗っていたパトカーが残されていた。

 

「車を降りて、付近の家屋に残っている住民がいないかどうか、探し回っていたんだろう。責任感とガッツのある奴だった」

 

褒め言葉なんていらないから孝則を返してほしい。香織には、地域課長の言葉が虚しく響いた。

 

 結婚して10年、ようやく授かった息子は、まだ言葉も話せない。これから「パパ」としゃべりだすのを喜び、手をつないで公園を歩き、ランドセルを背負って入学式に出る姿をビデオに収め、海や山でいっぱい遊ぶはずだった。無責任とそしられていい、無気力と非難されたって構わない。そんな、親としてのたわいもない望みを、叶えさせてよ。どうして津波が来ると分かったのに、引き返させなかったのよーー。

 

警察官である夫が亡くなった以上、警察官舎に住み続けることはできない。混乱の極みにあった被災地での手続きに手間取りはしたが、香織は半年ほどして、幼な子を抱いて実家に身を寄せた。美智子らはK市に戻るよう提案してくれたが、その気にはなれなかった。「こちらは心配事が尽きないし、思い出も多すぎるので…」。そう告げて、差し伸べられた手を拒んだ。

 

それから半年もしない頃だった。お遍路に出たという、美智子からの絵葉書が届くようになった。

 

(続)

 

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(23)新米警察官~江藤美智子の遍路道

 

「義姉さん、また四国なのか」

 

ポストに届いた絵葉書を手に、江藤良彦はつぶやいた。兄政彦の妻美智子が差し出した私信の裏には、第何十何札所だかの甍(いらか)が映っていた。

 

兄夫婦はあれ以来、お遍路に凝っている。聞いていると、どうも兄はそれほどでもないようだが、義姉は供養になると信じているようだ。あの日、犠牲になった甥、孝則の。

 

良彦にとって孝則は甥であると同時に、部下でもあった。江藤家があるK市の北、I市にあるI警察署の巡査で、良彦が所属長の署長だった。管内にある警察学校を卒業し、すぐI署の地域課に配属された。

 

孝則が警察官に憧れていたことは薄々、分かっていた。盆暮れのたびに実家に帰省すると、拳銃を撃ったことがあるかとか、犯人にはカツ丼を出すのかなど、テレビドラマの影響を受けたのであろう質問を浴びせてきた。「カツ丼は被疑者が自分で注文するもんだ。拳銃は上に五円玉を置き、反動で落とさないように撃つ訓練をやったりする」。それらしく語ってやると、目を輝かせていた。

 

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孝則はいったん、兄の後を継いで木工職人となった。根が優しいので、斜陽著しい生家を支えたかったのだろうが、子どもの頃からの憧れは消せなかったのだろう。数年して、転職の相談を持ち掛けてくるようになった。兄には悪いと思ったが、将来ある甥を家業の人柱にするのは忍びなく、何くれとなく諭してやった。

 

結果、採用試験は見事に合格。薹(とう)は立っていたが、体育大出で運動能力に秀でていたこともあり、警察学校も優秀な成績で終えた。将来を嘱望されていたと言っていい。まあ、半分以上は幹部警察官だった良彦の身内として注目されていたのだろうが。

 

卒配の1年後、良彦が所属長となった。県警内部では身贔屓を揶揄する向きもあったので、良彦は気を引き締めて赴任しものだが、孝則はそうした空気も読まず、署長室に出入りしては生まれたばかりの子ども自慢を繰り返した。

 

 通常、新米が署長室を頻繁に訪れるなどあり得ない。民間の空気を吸ってから奉職したという、異色の経歴も大きく影響していたのだろう。来るたびに職制をわきまえるよう叱責したものだが、子どもの成長が見られるたびに懲りずにやって来ては、前室に控える副署長にまでにやけ顔を見せた。もとより甥のこと、そんな孝則が憎めず、良彦も表向きは呆れたそぶりを見せつつ、楽しんでいた。

 

そんな日常を、東日本大震災が一変させた。

 

警察官を拝命した以上、厳しい現場に遭遇することは多々ある。毎日のように新聞にベタ記事が載る交通事故だって、現場には血潮が飛び散り、手脚があらぬ方向に曲がった被害者を目の当たりにすることもある。殺人などの強行犯事件ならなおさらだが、そんな警察にも格言めいた言い習わしはあった。「災害は別格」。言葉通り、良彦たちは突然にして緊急事態に放り込まれた。

 

いつものように署長室に座っていると、体が持ち上げられるような縦揺れが来た。次いで、庁舎が壊れるのではないかと思うほどの横揺れ。恒常的に予算不足の警察のことだ、良彦は倒壊を避けて築50年になんなんとする署を早々に飛び出し、駐車場で指揮を執った。生活安全課には行政機関との連携、刑事課には発生事案対応、留置管理課には代用監獄にいる被疑者への対応、地域、交通両課には避難誘導や警戒を指示した。

 

いくらもしないうちに、テレビが緊急速報に切り替わった。県沿岸部に6メートルの津波警報が出たという。最悪の事態を想定し、副署長に沿岸部へと向かった署員を把握するよう伝えた。「地域課員22名、PC(パトカー)にてI市沿岸部、主に集落近辺を警邏中」。いつも冷静な副署長が淡々と報告した30分後のことだった。テレビ画面に、沿岸部を覆う真っ黒な津波が映し出された。

 

「22名中、6名と連絡が取れません!」。数分して副署長が駆け寄って来た。若い時分から付き合いは長いが、良彦はこの男が取り乱すのを初めて見た。「署長!うち1人は孝則です!」。良彦は胃の辺りがスッと冷え込むような感覚を味わった。

 

(続)

 

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(22)刺激と危険の相関関係~江藤美智子の遍路道


江藤政彦は自宅の隣にある木工所で、とあるプレート作りに精を出していた。妻の美智子は一昨日から、5度目のお遍路に出掛けている。今回の作業内容は美智子には内緒だ。クリスマス商戦に備えて積み木細工を量産する必要がある、と説明してある。

 

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下地作りの一環で板にかんなを掛けながら、政彦は10年ほど前の長男孝則の行動に思いを馳せていた。「どうして警察官になど志願したのだろう」。大卒後の就職口を蹴ってまで木工所を継いでくれたというのに、知育玩具の受注もあいつが決めたというのに、なぜ――。思いはいつも堂々巡りだ。

 

予兆はあった。孝則が木工職人になって3、4年した頃だろうか。田舎町では数少ない根付きの青年ということで、消防団に勧誘され、のめり込み始めた頃のことだ。

 

消防団活動と言っても、内容はさして厳しいものではない。60歳を過ぎて引退したものの、政彦自身、若い頃は同じように活動していた。月に1回程度、分団に配備されたポンプ車の手入れがてら地域を回る。後は年に2回ほどある演習に参加するくらいで、広範囲を受け持つ訳でもないから火事などによる出動もそうそうない。

 

ただ、飲み会は多かった。消防団員にはおおむね、農林漁業者や自営業者などの地元出身者が就く。いきおい、子ども時分からの人間関係を引きずるもので、K市のような地方の小都市ならばなおさらだった。週に何度も、「会合」と称して誰彼の家で酒杯をあおる。気の利いた飲食店どころか、嫁の来てもない田舎のこと、青年たちは各々の自宅に集まっては飲んで憂さ晴らしをした。

 

木工に飽いたという訳ではないようだったが、東京暮らしを経験した孝則にとって、地元はあまりにも刺激に乏しかったのだろう。会合ではよく、「演習は興奮する。何て言うか、こう、ガーッと血がたぎる。出動はなおさらだ」と語っていたそうだ。

 

火に油を注ぐ存在も身近にいた。政彦の弟、良彦だ。高校を出てすぐ県警に奉職し、不法投棄事件や少年犯罪、薬物捜査などを担ってきた。酔うと1990年代に社会を震撼させた少年事件などを挙げ、やりがいを語って聞かせる悪癖もあったものだから、感化されたのかもしれない。

 

「父ちゃん、ごめん。やっぱり俺、警察官になりたい」。地元に戻ってから8年ほどした頃、孝則からそう告げられ、心のどこかで納得した覚えはある。

 

とにもかくにも、孝則は2009年、巡査を拝命する。採用に当たっては徹底した思想・身元調査が成されると聞いたことがあったが、伯父が県警本部の課長級の警視だとあって、ほぼスルーパスだったようだ。K市の北、I市にあるI警察署に配属された。

 

あまり前例のないことだそうだが、1年後には良彦が署長として赴任する。一族が近隣に顔をそろえ、孝則に男の子が生まれたこともあって、皆がめでたい、めでたいと言っていた。

 

一人、政彦ばかりは手放しでは喜べなかった。

 

「刺激」なるものを求めて転職した孝則。若く健康な男子ならばその思考に不思議はないし、木工に未来があるとは言えない現状もある。とはいえ、刺激とはそもそも、危険と隣り合わせということでもある。消防団時代、消火活動中に現場近くの用水路に転落し、脚が不自由になった仲間がいるだけに、「警察官としてのやりがい」とやらが孝則の身を危うくはさせないか懸念した。

 

漠たる不安は最悪の形で的中する。

 

11年3月11日。孝則が大地震後、津波からの避難誘導に出掛けたまま消息を絶ったと、良彦が知らせてよこした。

 

(続)

 

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(21)同行三人~江藤美智子の遍路道


江藤美智子は額からしたたる汗を手ぬぐいで拭きながら、空を見上げた。四国の空は快晴といっていい。何となく東北の空の色とは違うと感じる。抜けるような青とでも言おうか、ここは南国なのだと感じる時がある。10月に入ったというのに真夏のような暑さで、もう秋風が吹く地元とは大いに異なる。

 

美智子が歩いているのは高知県遍路道だ。これで5度目となる「区切り打ち」で、1番札所から「順打ち」を続けてきた。前回までは夫の政彦も一緒だったが、家業の木工所がクリスマス商戦を控えて繁忙期に入ってきたとかで、今回は一人での巡礼旅となった。

 

「まあ、『同行二人』て言うしね。本当は孝則を入れて三人て思いたいけれど、さすがにお大師さまと同列にしちゃ失礼よね」。菅笠に白衣、金剛杖のお遍路スタイルに身を包んだ美智子は独りごち、寂しさを紛らわせつつ歩いた。

 

美智子は1949年、東北の小都市、K市に生まれた。県庁所在地のS市の南約40キロに位置する「田園都市」だという。市役所は都市だなんて格好付けるが、何のことはない、誘致企業以外は田んぼと畑ばかりの田舎町だと美智子は思っている。

 

同い年の政彦と出会ったのは高校時代だ。小中と別の学校に通ったが、市内に高校は一つしかなく、15歳で席を並べた。顔は特に好みではなかったが、柔道部らしい無骨な指が器用に鉛筆を削り出すギャップに好感を抱き、次第に惹かれていった。木工所の跡取り息子だと聞き、なるほどと思ったものだ。

 

卒業と同時に木工職人となった政彦と所帯を持ったのは74年。3年後に孝則が生まれた。当時は輸入材が次第に幅を利かせはじめ、木工所はどこも経営が苦しくなりつつあったが、実直に仕事をこなす政彦と孝則との3人暮らしは、ささやかながらも幸せな日々だった。

 

孝則は政彦に似て、子どもの頃から手先が器用だった。自宅に隣接する木工所が遊び場だったこともあり、就学前から小刀をおもちゃ代わりに人形などを彫っていた。本人は「宇宙刑事ギャバン」と言っていたが、戦隊モノに疎い美智子にはさっぱりで、後に孝則と一緒にテレビを見て出来栄えに驚いた。

 

勉強の方ははかばかしくなかったが、三角関数に出くわして勉学の道から早々に撤退した政彦と美智子は、遺伝だろうと諦めた。その代わり、体育の成績は抜群で、180センチ台の長身を生かして球技も格闘技もそつなくこなし、推薦で東京の体育大学に進んだ。

 

「俺、家、継ごうと思うんだわ」。大学3年のある日、帰省した孝則はやにわにそう切り出した。住宅産業は今や輸入材一辺倒で、国産材で建具などをこしらえてきた家業は見る影もない。政彦の代で屋号を下ろそうと考えていただけに、うれしかった。警備会社への就職の口もあったそうだが、「父ちゃんと母ちゃん、放っとがんねべ」と言ってくれた。

 

大学で知り合ったという千葉出身の娘さんを連れ、K市に戻ってきた孝則。住宅建材だけではおぼつかないと、おもちゃ関係の仕事も積極的に受注した。主に乳幼児の知育玩具に力を入れ、角のない積み木などを熱心に生産していた。地元に根付いた数少ない青年として消防団活動にも加わり、家業はぼちぼちながらも、まずは順風な暮らしぶりだった。

 

家族を愛し、地域に愛された青年がわずか10年後に突然、遺体で発見されるとは、美智子はもちろん、誰もが想像しなかった。

 

(続)

 

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(20)幕間~福田禎一の街づくり

 

 東北(新聞)さん? いやあ、お待たせしちゃって。なに、土建屋なんてしてると、なんやかんやあるもんでね。どうも、どうも福田と申します。ほう。次長さんなんですか。吉田さん、知ってる? 御社の、営業の。あ、知らないかあ。まあ社員さん、いっぱいいるもんな。いや、いいの、いいの。普段、広告出稿で世話になってるってだけで。記者さんとは関係ないもんな。

 

 ところで、今日は選挙の関係? お宅に載ってから他のマスコミさんからも取材がいっぱい来てさあ。「市役所一家vs受注企業」だの、「復興現場から反旗の狼煙」とか、マスコミさんは脚色が好きだよねえ。震災が絡むってんで、こないだなんか、東京からワイドショーのクルーが押し掛けてきたよ。柿沼さんとはいつからソリが合わなくなったんですか、だってさ。参ったよ。

 

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 え? 違う? 選挙の話が聞きたいんじゃないの? 日下洋子さん…、ああ、N市の! 山の上の団地に住んでる女性だよね。彼女から聞いてきた?ほう。ウエディングドレスの飾り方はどうやって思いついたか、かい。

 

 う~ん。何て表現したらいいか難しいんだけどさ、オレの生まれ育ちに関係してるんで、ちょっと長くなっちゃうけど、いい?

 

 オレ、ずいぶん貧乏でさ。ガキの頃。10になるか、ならないかって頃にオヤジが死んじまったから、母ちゃんが女手一つで育ててくれたんだわ。朝は3時に起きて新聞配達な。その後はオレを学校に送り出してから近所の農作業を手伝って、暗くなるまで外で腰をかがめてた。それから家に帰って、家事やって、寝る間も惜しんで内職だ。母ちゃん、息子のオレが言うのもおかしいけど美人でよ。いくらでも後添いの口はあったはずなんだが、こんな馬鹿息子を優先させてね。何年もしねえうちに爪先には土が詰まり、肌はがさがさ、シミも目立つようになってた。

 

 そんでも、男手のない家計は知れたもんだろ。常に腹を空かせているようなガキでさ、近所の畑に植わってる大根引っこ抜いて、食べちまったことがあったんだ。それをたまたま、母ちゃんが見てたんだな。すっ飛んできて、頭の形が変わるんじゃないかってくらい殴られたよ。「禎一、いぐらカネねくたって、そんでは犬っコロと同じだど」ってな。

 

 ただ、腹は減るよなあ。そんな時、母ちゃんが炒め物を食べてるのを見たんだ。「母ちゃん、ずるい」って叫んで、皿に飛びついて全部食っちまった。でも、何だか変な味なんだ。筋っぽいっていうかね。よくよく見たら、大根やニンジンなんかの皮だった。母ちゃん、悲しそうな顔してたよ。オレに身を食わせて、自分は後で脇によけておいた皮食って腹を満たしていたんだな。

 

 

 大人になってからも迷惑の掛け通しでなあ。生まれた息子に障害があってよ。会社が忙しいこともあったが、本音を言えば現実を直視できなくて、母ちゃんに任せきりにしちまった。自閉症って分かるかい。親だって息子が伝えたいことが分からねえのに、母ちゃんは懸命に向き合ってくれた。息子が暴れるとな、どこにいてもすっ飛んで来て、抱き着くのさ。落ち着くまでそうしてるんだ。

 

 感謝を形にしたくてよ、家を建てたんだ。隙間っ風が入る貧乏長屋で育ったから、海鳴りってのがどうも苦手でね。母ちゃんに暖かい家に住んでほしいのもあって、最高に気密性の高い家をこしらえたんだけど、それがあだになっちまった。津波に警戒するよう呼び掛ける広報車の音が聞こえなくなっちまってた。

 

 何のことはねえ。ちょっとばかり成功したからって、オレは良い気になってて、考えなしに親殺しの道具作ってたんだ。

 

 もっと腹いっぱい、うまいもん食わせてやりたかったのに。温泉にも引っ張ってってやりたかったし、旅行にも連れて行ってやりたかった。オレはホント、考えが足りないバカで、いつでもできると思い込んでた。いつまでも母ちゃんがいるって、勘違いしていた。こんなに簡単に、本当にあっさりと、命ってやつは奪われていくのに。現実はいつだって、冷徹なんだぜ。

 

 母ちゃん、最後に「もっと大事なこどばやんねば」って言ってたんだ。大事なことってなんだべって、あれからずっと考えてたんだ。そしたら、ある日ふと、野菜の皮炒めだの、息子にしがみ付く母ちゃんの姿が蘇ったんだ。たぶん、あれなんだよ。大事なことってのは、人のために何ができるか考え抜いて行動することなんだ。それが日下さんの場合、ドレス展示室だったってだけなのさ。

 

 オレな、もう何もないのよ。親孝行する相手もいねえし、会社継がせる息子もいねえ。これ以上、下はねえって考えたら、何か吹っ切れてな。あからさまな指名外しやら何やら、これから柿沼がいろいろ仕掛けてくるだろう。でもな、「犬っコロ」にはなりたくねえんだ。たかだかの身代を守るために汲々として、困ってる人間を見て見ぬふりしてたら、こんなバカに一生を捧げてくれた母ちゃんに会わせる顔がねえよ。

 

 次長さん。オレ、ただ、母ちゃんに褒められたかっただけなんだ。「良ぐやったど、禎一。おめはオラの誇りだ」って言ってほしかっただけなんだ。遅いかもしんねえけど、母ちゃんが好きだったこの街を、日本一安全で、安心な街にしてみせるよ。

 

(福田禎一・完)

 

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(19)施工企業あいさつ~福田禎一の街づくり

 

 「したって、柿沼の話も理屈は通ってっぺよ」

 

 福田の話を聞き、田村がいの一番に市長の見解に理解を示した。心情的には川底や漁港を浚渫するべきだとは思うが、I市にその権限はないのだから、と。これに菅野が異を唱える。

 

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 「おめは被災者の気持ち分がんねのが。がれきば見だぐねって気持ちば」。これに大友も賛同し、「田村はいづもだ。予算だ、制度だってばりだおん」と言い募る。福田建設の最古参で、設立メンバーの3人。気性が荒い現場上がりの上、今日のような月に一度の「古株飲み」ではアルコールという援軍もあり、火種さえあればすぐ口論になる。見かねて福田が割って入った。

 

 「とにかく、防災センターは取りさ行く。あれは俺らでやんねばなんね。そいづど川底の件は別だ。柿沼は事務屋よ。これ以上、言ったって語ったって分がんねえべ。やんだって語る市民さいんだば、なんとかすてやりでんだけんどなあ」

 

 「んだば、おめ、やったらいっちゃ」。菅野がそう応じると、大友と田村もうなずく。珍しく3人の意見が合ったが、福田は真意を測りかねた。社長業に忙殺され、現場を離れてもう二十年近い。今さら最新重機を操って川底を浚渫するなどおぼつかないし、進行監理の方法もうろ覚えで、現場監督役も務まりそうにない。

 

 呆けたような福田の顔を眺め、3人は意地の悪そうな表情を浮かべた。この3人がこうした態度を取る時はおおむね、悪だくみをしている。

 

 「何も社長様に現場さ出ろだなんて言わねでば。おめが出るのは選挙だど。民主主義だべ? 意見が合わねんだば、おめがトップさ立づしかね」。何を言い出すのかと苦笑してみせると、3人は一様に真剣な表情で迫ってきた。田村が代表するかのように口を開いた。

 

 「川底の件だけじゃね。おめよりも現場さ近い分だけ、分がるこどもあんだど。このままだど、忘れられっとわ。あの地震も、仲間さいっぺ死んだ津波も。君代さんのこども、隼人のこどもだ。福田! 遺族がトップさ立って、国だの県だのさモノ言わねばなんねのや!」

 

 田村は、あの津波で妻を亡くした。三白眼には鬼気迫るものがあった。

 

 田村が続ける。「何年、建設会社の総務担当役員ばやってっと思ってんのや。予算と制度だげでねえど。このI市の選挙事情、俺以上に詳しい人間なんていね。神輿は作ってやる。おめは黙って神輿さ乗って、受がったらやりてえように吠えろ」。ただし、田村がゴーサインを出すまで柿沼に追従するふりをしておけ、という。

 

 これも出馬要請と言うのだろうか。社長応接室に広げられた裂きイカとチューハイの空き缶を眺めつつ、福田が「しかし、会社が…」と口ごもると、一番のにぎやかしの菅野が後を受けた。

 

 「心配すんな。何も命ば取られるわげでね。まんず何かあったってやあ、最初さ戻るだげだべ。こごさいる4人、なんのかんの語ったってや、カネも何もながったげんと、毎日草むしりと雪かぎばっかりだったげんとも、今よりずっと笑ってたべっちゃ」

 

 菅野も、福田の肩を揺すってきた大友も、みんな誰かしら家族を失っていた。ふいに涙がこぼれ落ち、止まらなくなった。福田はそのまま、男泣きに泣いた。古株飲みは珍しく、ケンカのないままお開きとなった。

 

 3か月後、福田建設は防災センター整備事業を落札した。会社総がかりで1年2か月の工期を掛け、集団移転団地の近くに三角屋根が印象的な木造平屋の建屋を完成させた。落成式で柿沼はトップバッターとしてスピーチに立ち、復興事業の象徴が自分の手で形を成したことを誇示した。

 

 福田の施工企業代表あいさつはラストだった。津波の可能性が取り沙汰されたらとにかく逃げるーー。そのシンボルを完工できたことで、君代のことが浮かんで不覚にも涙を見せてしまったが、田村演出の見せ場はその後だった。

 

 「ここから先も、このI市で、地図に残る仕事をしていきたいと思います。そして、母ちゃんに恥じない安全な街をつくってみせます。福田建設としてではなく、福田禎一として。来るI市長選挙に立候補させていただくことをここに宣言します」

 

 脇に控えていた田村、大友、菅野の悪友3人が拍手をすると、つられて万雷の拍手が沸いた。市長選は半年後に迫っていたが、県内指折りの建設会社代表で、篤志家でもある福田の知名度は、役所上がりの柿沼など及びもつかない。センター落成を土産話に、1か月後の市議会で再選出馬を表明する構想を描いていた柿沼は、しきりに足を踏み鳴らし、あからさまな不快感を示した。

 

 「福田建設社長 福田氏、I市長選出馬を表明」。翌日の東北新聞に、異例の施工企業あいさつが小さく載った。

 

(続)

 

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(18)為政者の在り方~福田禎一の街づくり


福田は、I市長の柿沼源次郎と相対していた。

 

 市役所5階の市長応接室。政策企画課の課長補佐が津波を目撃した場所の、真下に当たる部屋だ。何やら検討も付かないが、「話があるから時間を取ってほしい」と呼び出された。

 

あれから5年が過ぎていた。あの年はとにかく、がむしゃらに働いた。大地震と大津波があったのが3月11日。それから5カ月間、ちょうど新盆のころまで1日も休まず復旧事業の最前線に立った。

 

結局、君代だけでなく、隼人も遺体で見つかった。農業用水路に転落したバスはやはり、うみどり福祉会の車両で、中にいた19人全員が溺死だった。母と長男、理事長を務める障害者就労支援施設の通所者全員の死を一身に受け止めることとなった。I警察署長だった江藤が言うとおり、現実はかくも冷徹だった。

 

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どうして津波警報が出ているのに、バスを海岸方向に向かわせたのか――。通所者と運転手だった従業員の遺族からは、痛烈に面罵された。「建設会社と二足のわらじを履いているからだ」「実態は母親に任せきりだったそうじゃないか」。施設立ち上げをあれほど懇願した市民まで、福田を口汚くののしった。その末に、隼人を除く死者18人のうち11人の遺族が、うみどり福祉会と理事長である福田を被告とし、S地裁に損害賠償請求訴訟を提起する事態に発展した。


福田自身は泰然としていた。我が子を失った心の痛みや、どこかにぶつけるしかない怒りは自分も分かる。遺族には心からのお悔やみの気持ちがあったし、訴訟に加わらなかった遺族とは和解した。実質的に隼人のために設立した施設だったこともあり、うみどり福祉会も閉鎖した。それでも、君代が全身全霊を打ち込み、最後まで守り抜こうとした福祉会を被告としたことは、とうてい受け入れられなかった。

 

訴訟は基本的に代理人の弁護士に任せ、福田は建設会社のトップとして新盆以降も復旧に尽力し続けた。「あんだはこの街を造ってんだがら。早ぐ会社さ戻りんさい」。大地震後、そう言って福田を送り出した君代の顔が忘れられなくて、弱音を吐くことだけはしたくなかった。

 

5年たち、「多重防御の街」を復興方針に掲げたI市の街づくりは、ある程度めどが付きつつあった。沿岸部にあった集落群は内陸部に集団移転させた。海岸線には長大な堤防を築き、流失した防風林も植樹を続けていた。藩制時代から続く堀は浚渫し、のり面を舗装。さらに内陸側に旧来より路面を5メートルかさ上げした市道を敷設した。集団移転先を何重にも固めた布陣と言えた。


それら復旧・復興事業の進捗をひとしきり語り合ったところで、柿沼が応接テーブルの上に起案書を滑らせてきた。「(仮称)東部地区防災センター整備事業」とあった。起案者はあの政策企画課の課長補佐、現在は課長に昇進した彼になっていた。

 

「逃げろ、逃げろって叫んでもっしゃ、結局は家さとどまった人が多がったわげだ。あん時。んだもんたから、こごさ逃げるんだっていうランドマークでもあり、普段は避難訓練や防災イベントにも使える、津波は襲ってくるものなんだっつう意識付けのためのハコば、こさえてえのっしゃ」

 

福田にとっても否やはなかった。自宅や福祉会を守ろうと残った君代や、大地を覆うほどの津波など来ないだろうと思い込んだとみられる運転手のような犠牲者を、もう2度と出したくはなかった。

 

公共事業である以上、もちろん入札は行われる。政治家でもある市長は入札管理に介入できず、副市長が担っている。「天の声」など聞けるはずもないが、この工事だけは何が何でも取りに行こうと決めた。福田にはあの日以来、君代に恥ずかしくない街をつくろうと期してきた。

 

首肯するついでと言っては何だが、福田はこの際、このところ気になっていることをぶつけてみようと思った。漁港の底や、漁港に流れ込む川底に残されたままのがれきのことだ。

 

 一口にがれきと言うが、元は市民の住宅だ。先日も日下さんという、北隣のN市の山の上に宅地を買った沿岸部出身の若夫婦と会ったが、目にするだけで当時を思い出すとして今でも海に近づけない市民がいるのだ。

 

「そいづはでぎね。オラほうでねえもの。港や川ってのは国や県の管轄だって、あんだだって知ってっぺしゃ」

 

市民感情に思いを巡らせるのが為政者ではないのか。管轄が違うならば、要望という手だってあるだろう。それでなくとも時間の経過とともに、特に国は予算付けに冷淡になりつつあった。市民の思いを代弁するのが市長だろう――。役所上がりの政治家にありがちな柿沼の事務的な発言に、福田は次第に不信感を募らせるようになっていった。

 

(続)

 

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(17)警察署長の慟哭~福田禎一の街づくり


「うみどり福祉会には、ご母堂とご子息もいらっしゃるとか。ご無事をお祈り申し上げます」。江藤が続けた。

 

「まだ分からんじゃないか!だいたい、母ちゃんにはさっき会った!バスには乗っとらんはずだ!」

 

福田は自分でも驚くほどの大音声で叫んだ。20以上前にバブル経済が弾け、不動産投資のツケがたたって会社が傾きかけた時でさえ顔色を変えなかった男が、身内に不幸の可能性が指摘されると我を失った。

 

「最初に不確かな情報だと申し上げたはずです。とはいえ、知り得た情報を、特に人の生き死にに関わることを、席を同じくする人間に秘すことは私にはできない」。たたき上げて警視正まで上り詰めた人間は、努めて冷静だった。

 

江藤はまるで独り言のようにつぶやいた。「現実はいつだって冷徹です。こちらの想像を越えていく」。緊急時にこのような対策本部に詰める人間――端的に言えば人の上に立つ人間は、どのような事態に遭遇しても動揺してはいけないのだと、福田はあらためて肝に銘じた。

 

「会社って言葉だど、よそよそすぐ聞ごえっけどな、法人て言い換えるとどんだ?会社っても結局は人なんだど。一番上の人間がワタワタしちゃなんね」。ふいに、若い時分に耳にした親方の説教がよみがえってきた。

 

思慮を欠いた発言への謝罪と、気遣いへの感謝を口にすると、江藤は一笑に付した。「なに、福田さんの所のことが人ごとだとは思えませんでね」。I警察署でも、地震後に沿岸部へ避難誘導に出動した署員6人と連絡が取れない状態なのだという。

 

そのうちの1人は甥っ子で、まだ34歳。両親を心配して家業の木工所を手伝っていたが、自分に似たのか正義感が強く、一念発起して30歳で奉職したのだと、江藤はぽつりぽつり話してくれた。

 

「孝則っていうんですが、おととし、子どもが生まれたばかりでしてね。市内の官舎に嫁さんと3人暮らしでした。髪の毛が増えた、寝返りができた、お座りができた、立った、しゃべったって、いちいち署長室に報告に来ましてね。何度も執務中だと叱ったものでした。孝則の嫁さんにも兄貴夫婦にも、私、何て…。孝則のことは生まれた時から見てきたんです。警察に入ってからはそれこそ、兄貴以上に。人の死にはずいぶんと向き合ってきましたが、身内のこととなると、こんなにもつらい…」

 

激高した福田は我が身を見る思いだったのだろう。怒声が飛び交う会議室の片隅で心の内を絞り出し、江藤はうつむいて口を覆った。冷静さの裏には激情が渦巻いていた。

 

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その晩、会議室に詰めた面々はめいめい、床や廊下などで横になった。


津波がいつ押し寄せるか分からず、暗くなったこともあって、停電で真の闇に包まれた沿岸部には近づけずにいた。その間も救助要請や国・県からの連絡が引っ切りなしに続いたため、交代で仮眠を取りつつ夜明けに備えることになった。もっとも、ほとんどの人間が家族や会社のこと、もっと言えば、これからこの土地はどうなってしまうのだろうと考えて、眠るどころではなかった。


夜が明けると、深刻な実態が次々と浮かび上がってきた。沿岸部は各地が水没したままで、ところどころに遺体が見られた。数人などというレベルではない。「死者は数百人単位に上るだろう」との江藤の報告を聞いて、福田は思わず頭を抱えた。


そこに携帯が鳴った。マナーモードにしていなかったことを会議室のメンバーにわびつつ、廊下に出て通話ボタンを押すと妻の幸の金切り声が響いた。


「あんた、お義母さんが!」

 

一夜明け、市役所近くにある福田建設に残っていた幸は、沿岸部の自宅の様子を見に行った。自宅は一階の屋根付近まで水が来た跡があったが、びくともしていなかった。ただ、母の君代が自宅南側にある農園でビニールハウスの骨組みにもたれかかるようにして倒れていたという。

 

取るものもとりあえず、会社にあった現場巡回用のRV車を飛ばして駆け付けたが、母は息をしていなかった。一晩、水に漬かっていたらしく、青白い顔をしていた。それなのに、まるで微笑んでいるような穏やかな表情をしていた。

 

(続)

 

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(16)災害対策本部~福田禎一の街づくり


「津波、S病院くらいまで来てます!」

 

政策企画課の課長補佐が金切り声を上げた。I市役所きっての政策通として鳴らし、おそらく40代のうちに課長に上がるだろうともっぱらの評判だったが、危機対応には向いていないのかもしれない。緊急時にも関わらず、福田はそんなことを考えた。

 

こうした有事に備え、役所というところは、あらかじめマニュアルを定めている。災害の度合いに応じて対策本部やら警戒本部、情報収集室、連絡室などといった部署を立ち上げ、外部機関を集めて情報を一元化。本部長や室長の号令の下、問題に対処する。今回も地震発生後、警察や消防、建設業協会消防団、NTT、電力会社、学校関係者が集まってきていた。

 

福田もI市建設業協会の会長として顔を出した。まだ正式名称は決まっていないが、市長をトップとする対策本部になるのだろう。そう思っていた矢先、6階建ての市役所の東側の窓から海を見ていた課長補佐が巨大な黒い壁を目にし、会議室に駆け込んできたのだった。

 

市役所よりも高層のビルなど、そうはない田舎街だ。平地を呑み込んでいく津波をまざまざと目撃した課長補佐の驚愕は理解できたが、S病院は海岸から6キロは離れている。「あんなところまで水が来たってかぁ…」。前代未聞の事態に、頭が追いつかなかった。

 

国や県、I市など発注者が異なるとはいえ、福田建設は海岸堤防や藩制時代の堀の護岸、県道・市道敷設と市内の公共工事の多くを手掛けてきた。S病院の建屋もそうだ。市内の建造物の位置はおおむね頭に入っていただけに、信じがたい思いもぬぐえなかった。

 

突如、消防署長の携帯が鳴った。その後も断続的に鳴り続け、寄せ波で家屋が浮き上がった住民からの救助要請が相次いでいることを署員が伝えてきた。NTTや電力会社も現場からの情報を基に、不通や停電の知らせをホワイトボードに書き込んでいく。知事からの災害出動要請で自衛隊が駆け付けた頃には、会議室は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 

まだ警察署長が声を発しないので誰も口に出さなかったが、最悪の事態を想定せずにはいられなかった。6キロも内陸まで津波が入り込み、家屋が流され、電話も電気も使えないのだ。市民の死―。おそらく不可避に違いないだろうが、認めたくなくて、情報連絡に追われることで考えないようにしていた。

 

「本署より入電。本日16時半すぎ、沿岸部のT小学校付近で農業用水路に突っ込んで横転したバスを巡回中の署員が発見。津波が内部まで浸入し、数十人の死者が出ている模様」

 

100人近い人間が出入りしているというのに、喧噪が一気に収まり、会議室は静寂に包まれた。誰もが一時、呆然とした表情を浮かべて声の主―警察署長を見詰めた。「ほかにも沿岸部で複数の死者がいるとみられ、現在、詳細を調査中」。警察署長が続けた重々しい言葉が再生ボタンになったかのように、入室者が一斉に動きだした。


警察署長が福田に近づいてきた。確か江藤と言ったはずだ。去年の4月に異動してきた生活安全畑の警察官で、転任のあいさつでゴルフが趣味だと話していた覚えがある。まだ調査中の事案だと前置きした上で、その江藤が部下が走り書きしたメモに視線を落とした。

 

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「先ほどの横転したバスですが、車体に、うみどり福祉会という塗装が見られるとのことです。第二波、第三波の恐れがあるため、現時点で内部を確認することができず、同会関係者が搭乗しているかどうかは不明です」

 

スッと胃の辺りが凍りつくような感じがした。江藤の言葉は一人息子の死を意味していた。

 

(続)

 

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(15)いつもの座席~福田禎一の街づくり

 

福田の母君代が最後まで生きようともがいていた頃、長男隼人はうみどり福祉会の従業員が運転するマイクロバスの中にいた。

 

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I市中心部のスーパーで被災した。経営者の肝いりで、福祉会で育てた農作物を扱ってくれるありがたい存在。「作物が取れない冬場も、お付き合いを欠かしてはいけない」。そうした君代の考えの下、段ボールの片付けなどバックヤード作業を手伝っていたところ、下から突き上げるような揺れに襲われた。

 

自分が2センチくらい浮き上がったのではないかと驚くほどの縦揺れの後、激しい横揺れに見舞われた。隼人は、スーパーの敷地の地面と、隣接する市道の路面が互い違いに横ずれするのを目にした。まるで幼い頃に歩く練習をしたスキーの板のように、地面同士が交互に擦れるように動く。次第に立っていられなくなり、隼人はバックヤードに腹ばいになって耐えた。

 

時間にして数分ほどだったと思うが、知覚過敏の症状がある隼人はパニックに陥る寸前となった。大人になってからは幼少期ほどではなくなったにせよ、今でも常にない状態に置かれると、そわそわして嫌な気分になる。いつもの時間、いつもの場所で、同じような行動を取ることで心の平静を保ってきた隼人にとって、尋常でない揺れはさながら化け物との遭遇に近かった。

 

取り乱し、いずこかへ走り去ってしまいそうになるところで、福祉会の従業員がバスに乗るよう叫んだ。揺れが収まったから、後片付けに追われるスーパーの邪魔をしないよう、電話で指示を仰いだ君代の発案で施設に戻ることにしたという。「隼人の席はここね」。君代が決めた、いつものバスの、いつもの席が気持ちを落ち着かせてくれた。

 

バスは施設に向け、I市を東西に貫く県道を東の方向―海の方角へと走った。次第に反対方向の車線が混んできた。どうやら海手から逃れてきたようだった。「気象庁は県内に津波警報を発令しました」。運転席のラジオが大きな津波が押し寄せる可能性があると伝えていた。

 

警報を耳にしても、運転手に迷った様子はなかった。うみどり福祉会は海から1キロは離れている。これまでにも津波警報が出たことはあるが、漁港で数十センチほど水かさが増した程度で済んできた。当時、誰の心の中にもあった思い込みが、君代の指示を危ぶむ気にさえさせなかった。

 

ふいに、バスの前面に黒い点というか、横線が見えた。一瞬で見えなくなったと思ったら、1キロほど先にある藩制時代に築かれた堀ののり面から真っ黒な壁が一気に姿を現した。7、8メートルはあろうかという巨大な壁が徐々に迫ってくる。田園地帯を越え、住宅街に入り込むと次々に家屋を呑み込み、街路樹や庭木もなぎ倒し、ずんずん押し寄せてきた。

 

運転手は慌ててハンドルを切り、県道をUターンしようとした。こんな時、人数は運べるものの図体がでかいバスは、やっかい物でしかない。1回では曲がりきれず、ハンドル操作を続けているうちに後部から強い衝撃が襲ってきた。

 

「は、や、と、の、せ、き。こ、こ、は、や、と、の、せ、き」

 

同じ文句をつぶやきながら体を前後に揺すっていた隼人の中で、何かが切れる音がした。途端に抑えが効かなくなり、叫び声を上げた。立ち上がり、運転手の元に駆け寄って、飛び付いた。恐怖感を和らげるために隼人と君代が繰り返してきた儀式が、それ以上の運転操作を不能にした。

 

施設通所者と従業員の計19人が乗ったバスは第一波の衝撃で横倒しになり、県道脇の農業用水路にはまったまま動かなくなった。その上を、墨汁のような寄せ波と引き波が二度、三度と打ち寄せた。

 

(続)

 

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(14)水没する街~福田禎一の街づくり

 

 君代は慌てて玄関に駆け寄り、水没する前に外に出ようとしたが、外開きのドアは水圧のせいでピクリとも動かなかった。窓も同様に少しもスライドせず、無理に動かすとガラスが壊れる恐れもあった。

 

 この期に及んで窓の心配も何もないものだったが、極貧生活から這い上がった息子の努力の象徴を、自分が壊すわけにはいかなかった。

 

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 君代は二階に駆け上がった。窓の外は辺り一面、海に変わっていた。二階建てが平屋に、平屋は棟だけを残して水没していた。ちょうど地面が一階分沈んだような情景に声を失ったが、地獄絵図はここからだった。

 

 目の前を家が流れていく。寄せ波が浮き上がらせた住宅を、引き波が押し流していく構図だ。君代同様に二階部分へ逃れた住民が、恐怖を顔に張り付かせたまま海へと引き込まれていった。元は村だった田舎街のこと、多くは顔見知りで、窓辺に君代を見つけて助けを求めるような格好で流されていく人もいた。

 

 君代は呆然とするばかりで、救助など及びもつかなかった。海という名の悪魔がいるのなら、引き込んだ人間を食らっているように思えた。津波は第一波だけで終わるものではない。海沿いに住む身としてそのくらいの知識はあったので、今は波に耐えているこの家も第二波、三波に対してどれほど抵抗できるかは知れなかった。

 

 隼人を、子どもたちを守らなければならない。

 

 ふいに、うみどり福祉会の実務の担い手としての責任感が顔をのぞかせた。自分が死んだら、あの子たちは寄る辺を失う。障害を持つ子たちがようやく見つけたやりがいを、達成感を、働いて賃金を得た時の笑顔を、なくしたくなかった。

 

 「ば、あ、ち、や、ん、に、な、に、か」。さして多くもない工賃を初めて手にした後、隼人が口伝えにそう言ってきた。プレゼントをくれると言う。その言葉だけで、これまでの苦労が何もかも報われた気がして、声にならなかった。寄る辺をなくすのは、君代とて同じだった。

 

 意を決し、二階の窓を開けた。途端にゴーっという音が耳に入った。引き波が人や住宅、車、木々を海へと引きずり込んでいく音だった。「助けてー」。住宅ごと流された人の声も混じる。

 

 近くにあった椅子を引き寄せ、座面に足を乗せて窓枠を越える。そのまま一階の屋根を壁伝いに歩き、雨どいまで行こうと試みた。雨どいまで行ければ、二階の屋根に這い上がれると考えた。その先、どうするかは思考の外だった。

 

 誤算があったとすれば、靴を履いていなかったことだった。

 

 地震の後はガラスなどが散乱していることもあり、住宅内の確認は靴のまま行う方が安全だ。ただ、苦労の掛け通しだった息子が建ててくれた努力の結晶を、まさに土足で汚すような気がした。福祉会で履くスニーカーを脱ぎ、そのまま二階に逃れたため、靴下のままで津波で濡れた屋根を歩くことになった。

 

 雨どいに手がかかりそうになった瞬間だった。手先に集中するあまり、足元の確認がおろそかになっていたのだろう、雪止め金具を踏んでしまった。折からの寒さでかじかんだ足に激痛が走り、壁から手を放して足を触ろうとかがんだ。その刹那、君代の体は壁と反対方向に転げ、墨汁のような色の水に吸い込まれた。

 

 生まれたばかりの福田が、顔を真っ赤にして泣いている。父親の葬式の意味が分からず、棺の中の顔を触る小学生くらいの福田も見えた。腹を空かせ、近所の畑の大根をジッと見つめる姿もあった。ふいに、学生服姿の福田が腰のベルトに手ぬぐいを下げ、鶴嘴を手に出掛けていく光景に移った。続いてランニングシャツにヘルメット姿の男たちと肩を組んで笑う福田。幼い隼人を抱く幸と、笑みを浮かべて寄り添う福田はまだ若い。

 

 走馬灯って、こいなんだべかー。あいやぁ、お父ちゃん、随分待だすたなやぁ。オラもそっちさ行ぐみでぇだ。禎一はもう、大丈夫だ。女学生仲間にゃ、トンビが鷹生んだみでだって言われでる。今じゃ近在に並ぶ者もいねほどの社長様だ。あんなにちぃっこかったワラスが、えれぇでっかぐなってわぁ。ほんでも、あれから貧乏になっちまったんで、苦労に苦労ば重ねで。んだども最後は立派な家までこしぇでけだんだ。オラ、禎一のおかげで、えれぇ幸せだったでば。んだ、隼人って孫までいんだでば。こないだ、なけなすのカネでスカーフさ買ってけだんだ。赤くって綺麗でなやあ。んだがら、いっぺ話っこあんだでば。

 

 その思考を最後に、君代の意識は途切れた。

 

(続)

 

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(13)気密性の弊害~福田禎一の街づくり

 

 福田の自宅は、障害者就労支援施設「うみどり福祉会」の敷地北側に建つ。施設は、ありていに言えば長男隼人のために設立したようなものだっただけに、隼人と、実質的な運営者の母君代が通いやすいようにという配慮だった。

 

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 木造一部二階の、典型的な多世代向け住宅。ただ、海沿いの田舎街だけに土地代が安いことから住宅には金を掛けた。例えば、一般的な住宅の廊下は90センチ幅だが、120センチ幅で普請した。住宅は軒先が壁面より突き出ていればいるほど「お屋敷っぽさ」が出るものだが、これも通常の倍ほどの60センチとした。

 

 福田が何よりこだわったのが気密性だった。住宅の肝は気密性にあると、元から考えていた。

 

 生まれ育った家は寒かった。断熱材などが一般的でなかった時代ということもあって壁面から隙間風が入り込み、破れ障子も体から熱を奪った。極貧と言っていい生活が気密性よりも日々の食事に気を向かせ、住宅に気を遣う余裕などなかった。

 

 長じるにつれて友人宅に遊びに行くようになり、その違いに愕然とする。内外の温度差など感じないで育ってきたが、家の中とはこれほどまでに暖かいものかと建築の重要性を思い知らされた。大工だった父親の影響もあったが、建設業を志した原点と言っていいかもしれない。

 

 そうした生育環境が、初めての自宅造りにも反映された。ペアガラスなど気密性を高めるための工夫を随所に施し、うみどり福祉会の設立から2年後、自慢の邸宅が完成した。海から1キロちょっとというロケーションから海風が強い土地だったが、建設会社の社長というポジションが風はもちろん、海鳴りさえ聞こえない頑丈な造りを可能にした。

 

 これが裏目に出た。

 

 大地震は福田宅も揺さぶったが、堅固な構造はびくともしなかった。とはいえ、家のそばで働く君代は内部の確認に走った。もし、何かがあったら、懸命に働いてこの家を建ててくれた長男に申し訳がない。おそらく巨大地震のせいで社長業が忙しく、自宅を顧みる余裕はなかろうという配慮もあったとみられる。

 

 家の中も無事だった。棚に置いてあった頂き物のウイスキーやらオブジェなどが落下するなどの被害はあったが、構造物の亀裂や破談といった深刻な影響は見られなかった。君代が胸を撫でおろしたところに、福田が顔を出した。

 

 「母ちゃん、大丈夫が」

 

 「何ともね。あんだの会社は道路やら橋やら、この街を造ってんだがら。家さオラ見っがら、早ぐ会社さ戻りんさい。もっと大事なこどばやんねば」

 

 促され、福田が踵を返した十数分後、巨大な黒い水の壁が福田邸に迫った。普段は青く穏やかな海が何百年かに一度の牙をむき出し、自慢の二階家に打ち付けた。現代建築技術の粋を集めた住宅はその大波にも耐え、一階部分が水没しながらも家の中に一滴の水さえ入れなかった。

 

 家の中にいた君代は最初、何が起きたか分からなかった。I市の広報車が何台も巡回し、津波への警戒と避難を呼びかけていたものの、堅牢な家屋がその音を阻んだ。地震被害の確認に集中していたこともあったかもしれない。

 

 「ド、ドーン!バン!」

 

 一段落して君代が落ち着いたところ、東側の壁が爆発でもしたかのように音を立てた。君代が驚いて窓を見やると、半分ほどの高さまで墨汁のような液体に浸されていた。真っ黒な水は見る間に嵩を増し、一階は真夜中のように暗がりに沈んだ。

 

 生死を分かつカウントダウンが始まった。

 

(続)

 

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(12)農福連携~福田禎一の街づくり

 

 福田は正直、長男隼人の世話が苦痛だった。

 

 赤ん坊の時はまだ良かった。腹が減ったといっては泣く、おしめが濡れたといっては喚く、夜泣きする。乳児ならば当たり前だ。福田もそう思えた。

 

 それが3歳になっても変わらず続いた。言葉も、言語らしい言語にならず、さすがに医者を頼った。自閉症と診断された。

 

 歩くことは普通にできたが、とにかく落ち着いていることができない。近所の犬が吠えると暴れる。車が脇を通り抜けると吠える。運動会の日の朝、近所の小学校で花火が上がっただけでも部屋で恐慌を来した。

 

 知覚過敏の中でも、特に聴覚過敏という症状らしかった。人よりも感覚が研ぎ澄まされていると言ったらいいのか、光が増幅されて感じられたり、音が大音量で聞こえたりするという。犬は怪物に、車は恐ろしい兵器に、運動会の花火はとんでもない大爆発に思えるようだった。

 

 言葉が不明瞭なため、意思の疎通さえ難しい。隼人が暴れだすと始末に負えなかったが、福田の母君代は隼人に飛びついて抱きしめ、落ち着くまで耳元で何事かささやいてなだめた。隼人が少し穏やかさを取り戻すと、抱きしめたまま体を揺すり、平静になるまでそのままでいた。

 

 君代は隼人と少しでも会話が成立するようにと、口を大きく開けて五十音の形を覚えこませ、「あ、い、う、え、お」と話して見せて指ささせ、「『お』ね。『お』って言いたいのね」などと言っては意思を通わせようとした。そして、それは実現した。

 

 隼人は、ご飯を食べて「おいしい」と伝えたいのだと、君代に教わる日々。福田も、妻の幸も頭が下がった。県南きっての建設会社に成長した福田建設の社長と、経理や総務をこなす社長夫人。家庭と長男を顧みる余裕のない状態に、君代の存在は何にもまして有難かった。

 

 とはいえ、隼人が義務教育の年限を終え、支援学校も出るころになると、そうも言っていられなくなった。

 

 就職だ。

 

 障害を抱える子を持つ親に共通する悩みと言っていい。自分たちは年老いていく。いつまでも子の面倒を見ていられる訳ではない。障害がある我が子が自立して生きていける環境は、親たちのたっての願いだった。

 

 「福田さん、何とがなんねべが」

 

 福田の元には次第に、親たちからそうした相談が寄せられるようになっていった。I市随一の建設会社のトップで、自らも障害児を育てる父。何かしらの軽作業でいい、食べていけるだけの環境をー。親たちの切実な気持ちだった。

 

 福田は2005年、市内に障害者就労支援施設を立ち上げた。自らの出身地に近いI市沿岸部に700坪の土地を買い求め、施設の事務棟と農地、ビニールハウス群を整備。地元の農家を講師に招き、隼人ら知的障害を抱える子たちが農業などで工賃を得られる作業場をこしらえた。今でいう「農福連携」の先駆けだった。

 

 近在の子たち17人が登録し、葉物野菜などを栽培。不定期ながら理解のあるスーパーなどに卸すスキームは市内はもちろん、県内でも評判を呼んだ。「さすがは福田さんだ」。福田建設を一代で築いた手腕に、篤志家の顔が加わることになったが、実態は君代の手柄だった。

 

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 今や従業員数500人、下請け企業も十数社に上る中堅ゼネコンを取り仕切る男が、障害者施設まで実質的に手掛けるのはどだい無理があった。福田は運営法人の理事長という肩書だったが、運営の実際は古希を迎えた君代が担っていた。自閉症の子を成人させた手腕が、いかんなく発揮されていたと言っていい。

 

 「まったく、母ちゃんには敵わねえわ」。福田は苦笑しながらも、やりがいを見出した隼人らを見るにつけ、母の後ろ姿に手を合わさずにいられなかった。

 

 順風満帆に見える福田の人生が暗転したのは、施設立ち上げの6年後だった。

 

 マグニチュード9.0の、あの大揺れ。I市の施設にも高さ7メートルもの大津波が押し寄せ、君代と隼人ら20人が行方不明となった。

 

(続)

 

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(11)立志伝中の男~福田禎一の街づくり

 

「母ちゃんのことを思うと、どうして、も少し早く…これ造んねがったがって…思って…」

 

190センチ近い巨漢が、人目もはばからず泣いた。目の前には100人を超す市民が着座し、男のスピーチに耳を傾けていた。ただ、失笑はもちろん、眉をひそめる向きも、さざめきさえもない。むしろ涙を誘われたようで、ハンカチで目頭を押さえる女性の姿も見られた。

 

男の名は福田禎一。東北地方の地方都市、I市に本社を置く中堅建設会社、福田建設の代表取締役を務める。I市発注の防災センターの落成式に当たり、施工企業の代表として壇上であいさつする途中、7年前の東日本大震災で犠牲になった母の君代を思い出し、感極まった。

 

「よぉす!次ぃ、市長さ出ろ!受がっど!」

 

聴衆から上がった、ヤジともおべんちゃらともつかない掛け声に居並ぶI市幹部は血相を変えたが、当の市長は苦笑いでお茶を濁した。実際、福田が市長選に立候補するのではないかという噂話はまことしやかにささやかれてきたし、出馬をすれば現職に肉薄するだろうことは容易に想像がついた。福田本人はこれまでもきっぱりと転身を否定してきたが、つまりは、それだけの人望がある男だった。

 

I市は県都S市の南約30キロの距離に位置し、人口5万人ほどの田舎町だ。古くは奥州街道の宿場町として栄えたが、近年は凋落著しく、昭和の大合併で海手側と山手側の二つの村と一緒になってできた。とはいえ、地方都市が、同じように疲弊した2村と合併したところで上向くはずもなく、S市のベッドタウンとして人口が減らないだけマシと言われる有り様だった。

 

福田は、そんなI市で立志伝中の人とされる。

 

1962年、まだ10歳にも満たない時に大工だった父親が現場で転落死し、母子家庭で育った。貧窮を極めたが、新聞と牛乳の配達を掛け持ちして君代を支え、中学を出ると父親も世話になっていた人夫出しの元に出入りするようになった。始めのうちこそ一輪車の扱いにもふらつくような状態だったが、偉丈夫と言っても差し支えないほどの体つきが幸いし、3カ月もしないうちに戦力になった。

 

これが、人夫出しに仕事を回していた地元土建屋の親方の目に留まった。時は高度経済成長期。現在は没落の一途をたどるI市も、道路敷設やハコモノ建設などの公共事業が目白押しで、人手はいくらあっても足りなかったが、何事にも反動はある。親方はその先をにらみ、福田に何くれとなく目を掛け、仕事をたたき込んだ。

 

「これから必ず仕事が減る時代が来る。その時のために何でも吸収しておけ。稼いだ金も貯めておけ」。親方は口癖のように福田に言い聞かせた。戦中派として、仕事のない時の悲哀をとことん味わった親方だった。ほどなくしてオイルショックが起き、先見の明のなかった建設労働者たちはそれまでの稼ぎを溶かしてしまった。

 

福耳にえびす顔という、生来の顔立ちも役だったのか、福田はその時点でちょっとした小金を貯めていた。貧乏世帯で育ったがゆえに、遊び方を知らなかったとも言えるが、ともかくも、その金を元手に小さな建設会社を設立。従業員3人ばかりの小所帯ではあったが、夏の草刈りから冬の除雪まで、小さな公共事業も厭わなかったおかげで徐々に信用を勝ち得た。

 

 80年代に入って景気が上向いてくると、福田の元には仕事の依頼が引っ切りなしに舞い込むようになる。十年もすると従業員数は当初の30倍近くに増え、売上高ベースで県内8位の企業体に成長。I市を中心に道路、港湾、橋梁、建設と何でもこなす中堅ゼネコンの体裁を整えていった。

 

 福田はこのころ、私生活も転換しつつあった。82年、世話になった親方の一人娘、幸(さち)と結婚。市内に別居していた君代を呼び寄せ、借家ながらも居を構えた。

 

 子どもも授かった。なかなか恵まれず、7年目にして願い叶ったのだったが、障害を抱えて生まれてきた。隼人と名付けた自閉症の子を誰より愛し、一心に育てたのが君代だった。

 

(続)

 

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(10)幕間~日下洋子のウエディングドレス

 

あ、はい、こんにちはー。こちらこそ、よろしくお願いします。東北新聞の次長さん、なんですかー。何だか、すごい。私、記者さんの名刺なんて初めていただいたもので。うまくしゃべれるかしら。

 

すいません、こんな山の上までおいでいただいて。住宅のほかは何もないでしょう?お医者さんもふもとまで降りないとないから、子どもが熱出したらどうしようって考えて、夫婦でお酒を飲むなんてこともできなくって。

 

ああ、すいません。話が脱線しちゃいましたねー。どうも緊張しちゃって。お忙しいからお時間ないですもんね。失礼しました。

 

それで、なぜウエディングドレスを飾ったか、ですよね。うーん、これだって理由はないですけど、ちゃんとした場所に仕舞いたいという思いは元々あったんです。その思いを福田さん―福田建設の社長さんなんですが、酌み取ってもらったと言いますか。初めて社長さんのところにお邪魔した時、もう設計図に折り込まれていたんですよ。

 

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そりゃもう、びっくりですよね。アパレルのことは多少、勉強しましたけど、建築のことはさっぱりなもので。壁をアクリルガラスにして三角形のショーケースを作るなんて、考えもしませんでしたよ。

 

ウエディングドレスは、やっぱり飾った方が映えますよねえ。見せるために存在するドレスだから。本当に素敵に仕上げてもらったと思っているんです。それに、両親にも見えるだろうから。ほら、あそこの仏壇に遺影があるでしょう。玄関から入った私たちも、両親も、どちらからもよく見えるようにできているんですよー。

 

え?明るいですか?私。たぶん緊張しているから、おしゃべりになっちゃって、そう思われるのかもしれません。取材されるのは初めてというのもありますしね。そもそも、この取材のお話を受けるって決めるまで、両親のことは考えないできたんです。やっぱり、それだけ衝撃的で。脇に置いてきたっていいますか。


それが、お話をいただいてから、この家を建ててからでも1年たってて、ああ、もう、あれから7年にもなるんだって思って。芳乃香、ああ長女なんですけど、今年、小学生になったんです。それだけの時間がたったし、そろそろ、おじいちゃんとおばあちゃんがいない理由もきちんと話さないといけないって考えて。


それから、2人についていろいろ思い出して、考えて。2人のことを記者さんに買いてもらうことで、生きた証しって言いますかねえ、それを残したいって思ったんです。今もう、何もないですから。全部、津波に流されたじゃないですか。あるのは私の家にあったウエディングドレスと、私の結婚式の時に撮った写真、まあ遺影になっちゃいましたけど、それだけですもん。


振り返れば、いつだって必死に生きてきたはずなんですけど。震災後は特に必死で、子育てに追われて、家事もあって、そっちを頑張ることで考えないようにしていたんだと思います。犠牲になったなんて信じられないって思いが消せないんですよね。火葬場にも行ったのに、芳乃香が母の生まれ変わりだって信じ込んだくせに、いつかひょっこり帰ってくるんじゃないかって思ってしまうんです。


でも、区切りを付けることにしました。そういう自分の心に。私が認めないと、子どもたちにきちんと話せませんもんね。東日本大震災っていう地震津波があって、たくさんの人が亡くなって、おじいちゃんとおばあちゃんもそうだったんだって。2人とも一生懸命生きて、私を生んで、育ててくれて、でも最後は悲しいことになっちゃったって。災害はいつ来るか分からないんだから、何があるかなんて誰にも分からないんだから、備えることはもちろん大事だけど、とにかく一生懸命生きなさいって教えようと思うんです。


私も必死に生きますよ。2人の分まで?いやあ、自分の分で精いっぱいですよ。あははは。一生懸命子育てして、夫を支えて、家庭を守って。子どもが大きくなって少し余裕ができたら、また洋服の仕事に携わりたいという気持ちもちょっとあります。それこそ死ぬまで働きますよー。住宅ローンもありますからねー、母は強し、です。

 

そしてね、いつか自分も死んじゃうんでしょうけど、そうしたら2人に、あれから何十年か分の話をしてあげようと思うんです。

 

 つらいお別れだったけれど、私、負けないで頑張ったよって。全力で生き抜いたよって。本当は孫の顔を見せたかったし、抱っこさせてあげたかったし、一緒に旅行したかったけど、ごめんねって。その分、私が笑顔にさせたし、いっぱい抱きしめたし、楽しい所にいっぱい連れて行ったからって。

 

 見ててくれた?って。


また、会えますよねえ、記者さん。お父ちゃんと、お母ちゃんに。


(日下洋子・完)

 

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