あの日を境に

巨大災害によって人生が一変した人々の群像劇

(9)福田建設~日下洋子のウエディングドレス

 

「あなたの家を、理想の形に福田建設」

 

夫の隆にキャッチフレーズ入りの名刺を差し出した男は、社名をそのまま体現したような、がっちりした体躯と福々しい顔の持ち主だった。福田禎一と名乗った。洋子と隆はN市北西部の丘陵地帯に土地を買うと、その足で福田建設へと向かったのだった。

 

市内にも地元新聞社とテレビ局の冠が付いた住宅展示場があり、主に東京に本社を置く十数社ものメーカーがひしめき合っていた。土地購入前に一度覗きに行ってみたが、「被災者向けバリュープラン」やら「今なら坪単価35万円」などの売り文句を記した桃太郎旗やチラシが至る所に並び、辟易とした。

 

「震災特需ってやつか。何だかやりきれない気持ちになるなあ」。隆のその一言は、その当時の地元住民の気持ちを代弁するものだった。

 

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国内建設業は折から続く不景気のあおりを受け、財政規律を守ろうとするがための公共事業縮小の余波もあって、多くが立ち行かなくなりつつあった。建設事業に見切りをつけ、異分野に乗り出す会社も無数にあった。東北地方のインフラや家屋をずたずたにした東日本大震災は、降って湧いたような好景気に違いなかった。

 

実際、土や建設資材を運ぶダンプカーの運転手は引く手あまたで、1日に5~6万円以上が保証されたと聞いた。おかげでS市繁華街の飲食店は建設業者でプチバブルの様相を呈した。人気店ともなると地元住民が予約も取れない有り様で、「景気が良いのは結構だけんとも、地元からすりゃ『何だかなあ』って思うわな」と悪態も聞こえてきた。


洋子が家を購入しようとした頃は、そうした熱も冷めていた。東京でオリンピックの誘致が決まったためで、選手村建設だとかで潮が引くようにバブルのあだ花は見られなくなった。人の不幸を金に換え、移り気にまた別の土地へと飛んでいく。そんなようにも映る建設業者に、大切な家を任せようとは露ほども考えなかった。

 

幸い、勤めていた会社の社屋を手掛けた会社が地元の中堅建設だった。住宅部門もあるというので打診したところ、社長自らが話を伺いたいと言ってきた。福田だった。

 

「いやあ、震災前は公共事業もあまりなくってね。そっちばっかりじゃ食っていけないってんで、住宅部門も立ち上げたんです。でも、この忙しさでしょう。開店休業状態ってやつになってたんですが、ご事情を伺ったものですから」

 

ずいぶんと如才ない社長だ。寡聞にして知らないが、建設会社の社長というのは、こうしたタイプが多いのだろうか。ぷるぷると揺れる福田の耳たぶを見詰めながら、洋子はお腹のボタンが弾け飛びそうな作業着に身を包んだこの男が次第に好ましく思えてきた。自身もN市の南隣、I市の沿岸部で被災したという点も、洋子たちの思いを酌み取ってくれそうに思えた。

 

「二度と津波が来ないように山の上に土地を選んだ、と。だから後は、とにかく地震に強い構造で、ですね。分かりました。それで、奥さんのご両親の仏間も造ってほしいということでしたが、一つご提案があるんですよ」


福田はそう言って、簡易版だとする設計図を示した。見ると、玄関を入ってすぐの右手に仏間がある。仏間に沿って、玄関から奥のリビングまで伸びた廊下。その行き当たり、仏間と廊下の隅に、両者をつなげる三角形のスペースが設けられていた。吹き出しに、「壁面:透明アクリル」と指示されている。

 

「ここにマネキンを置いて、奥さんのウエディングドレスを飾りませんか。玄関を開けるたびに目に入るし、何より、遺影からも見えるでしょう」


奥さん、感激するのは完成してからにしましょうやと、福田がハンカチを手渡してきた。アイロンの効いた、きれいなワイン色の1枚だった。


(続)

 

             

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(8)49日後~日下洋子のウエディングドレス

 

6年が過ぎた。

 

不惑を数えた洋子が台所仕事に精を出していると、2人の子どもが駆け寄ってきて、膝元でじゃれ合った。まもなく5歳になる女の子と、3歳の男の子。洋服への思いは断ちがたかったが、仕事はきっぱり辞め、子育てに専念してきた。

 

女の子には母の芳江から一字をもらい、「芳乃香」と名付けた。ほのか、と読ませる。芳しい香りがする日だまりのような、人を癒やすことのできる素敵な女性になってほしいと願いを込めた。芳江のように。

 

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芳江と父の喜一郎を見送ったのは、あの大津波から半月ほどしてからだった。

 

N市は海沿いにあった斎場も被災しており、海水や泥、がれきが入った火葬炉を復旧させる必要があった。あまりに多くの人間が一時に犠牲になったこともあり、いったん土葬することを決めた市もあったようだが、再び掘り出して火葬する「改葬」は遺族を2度悲しませる。N市では炉を応急復旧させる方針が取られていた。

 

「キいっちゃんには、えれえ世話んなってねえ」

 

炉の扉が閉められた後、たまりかねたように場長だという男性が近寄ってきた。2人とも沿岸部の出身だったことから、市議会議員と市役所職員という関係を越えた付き合いがあったそうだ。芳江とは小、中と同級生だったという。

 

こんな時、他人から死者の人物評を聞くほど辛いことはない。火葬場にいるのに、おかしな話には違いないが、肉親の唐突な死を考えまいとする自分もいる。「お忙しいところ、ありがとうございます」。意図を酌み取ったのか、場長は後味の悪そうな顔で職務へと戻っていった。実際、仕事は山のようにあるようだった。

 

斎場の煙突から出る煙を眺めてから1カ月ほどした頃、洋子は医師に妊娠を告げられた。このところ、ずっと体調不良で、心労のせいかとも考えたが、吐き気が日増しに募ることから婦人科を受診したのだった。

 

「49日、経ったがんなあ。キいっちゃんが、芳江さんだが、どっちがの生まれ変わりがもしゃねな」

 

当然、まだ性別は分からないが、そうか、その可能性はある。いや、あると思いたかった。基礎だけとなった実家跡のように、何の感情の起伏もなくなっていた洋子の心に、ある種の明かりが灯った瞬間だった。

 

ほどなくして女の子だと判明した。「あー、くっきり線が見えるわ」。お腹にエコーの機械を当てる医師が、返答に困る表現で性別を教えてくれた。芳江の生まれ変わりに違いない。気持ちが浮き立つのが分かった。

 

十月十日を経て洋子は元気な女の子を抱き、大津波の後、夫婦二人きりで過ごしてきた白黒写真のような生活に色味が宿った。さらに数年して男の子(喜一郎から一字拝借して「瑛喜」と命名した)も産声を上げ、S市のマンションはさらににぎやかになった。

 

「お前さえ良ければなんだけど。家、建てないか? できれば、N市にさ」

 

子どもたちが寝静まったある晩、夫の隆がそう切り出した。にぎやかなのは良いものの、マンションが手狭になってきたのも確かだった。S市の生まれで、マンション暮らししか経験のない隆の気遣いが、何よりうれしかった。

 

ずっと気になっていたこともあった。子育てに追われ、家の狭さを言い訳にして、仏壇もないまま遺影と位牌を片隅に追いやっていたことだ。

 

衣装ダンスに仕舞ったままにしていた唯一の遺品、ウエディングドレスの存在も宙に浮いていた。


(続)

 

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(7)芳江の嫁入り~日下洋子のウエディングドレス

 

母の芳江は、お気に入りのワイン色のセーターを身に着けていた。「華やかで女性って感じの色じゃない?」。その色がとにかく好きで、洋服はもちろん、靴や傘、財布、キーホルダーとそろえ、出掛ける時はどれかしらを持っていったものだった。

 

「避難するっていう時にも、そのセーターを選んだのね」。赤系統の色味だけに、皮膚の白さが際立つ。幸いなことに父の喜一郎と違って泥や傷は見当たらず、洋子は胸をなで下ろした。男だからいい、というものではないにせよ、顔に傷ができるのは同じ女として耐えがたい気がした。

 

近所にあった工務店の重機の下で見つかったという芳江。津波の通り道となったのだろう、その重機の下では何人もの住民が折り重なるようにして亡くなっていた。ちょうど、あの歩道橋の階段のような場所だったのだろうか。犠牲者の中には幼馴染の紀美子さんもいたと聞き、洋子はほんの少しだけ救われる気がした。二人して避難の途中だったのだろうか。

 

顔にかかった髪の毛を耳にかけてあげながら、洋子は芳江に話し掛けた。「最後まで紀美子さんと一緒で良かったね」。白い皮膚は氷のように冷たかった。


芳江は1949年、今も暮らすN市沿岸部に生まれた。父親は漁師だったが、芳江が四つの時、漁に出たまま帰らぬ人となった。「漁師は板子1枚下は地獄だがんね」。達観したような母親の態度に違和感を感じたものだったが、酔っては暴れ、母親を困らせる男だったと後に聞き、妙に納得した。

 

父親の死で家庭には穏やかな時間が流れたが、当然ながら家計は逼迫した。公園の水を飲んで空腹をまぎらわせるほどで、小学生にしてハンカチに刺繍を施す母親の内職作業を手伝うようになり、結果として裁縫の技術が身に付いた。刺繍に集中している時だけは空腹を忘れることができたのも大きかった。中学を出るとすぐ、隣町のS市の縫製会社に就職したのは自然な流れだった。

 

漁師町の子どもは小中とも全員、同じ学校に通った。芳江も喜一郎の3学年下で、同時期に学び舎で過ごした。もともと喜一郎が見初めたらしく、醤油や卵など大友雑貨店の商品を差し入れては気を引こうとしたと聞いた。プレゼント作戦が功を奏したのは1975年のことだった。

 

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芳江は喜一郎と一緒になると縫製会社を辞め、雑貨店を手伝いながら店裏の離れで裁縫教室を始めた。まだまだ着物が幅を利かせていた時代。近所の奥さん連中に洋裁を手ほどきするというのがウリだったが、内実は専業主婦の息抜きの場所だった。

 

カラフルな布を裁ち、きれいな洋服に仕立てていく様を見るのは幼い洋子にとっても楽しく、成長するにつれて入り浸るようになった。今のアパレル系商社勤めの原点はおそらく、この場所にあったのだろう。

 

洋子の結婚が決まると、芳江は自分の着物の中でも一番のお気に入りを解いてウエディングドレスに仕立てた。明るい銀色に近い白地に、ワイン色の差し色が入った華やかな布地で、洋子も一目で気に入った。芳江の嫁入りに際し、祖母が注文した着物だったという。

 

「母さんの家、貧乏だったんだけどね、お父さんと一緒になる時におばあちゃんがくれたの。生活は苦しくても、娘の晴れ着代だけはため続けてくれてたんだね。私それ聞いて、自分の娘にもこれ着せるんだって決めてたの」


その芳江は今、同じく冷たくなった喜一郎のそばに横たわる。あまりに多くのことが重なりすぎたし、在りし日の思い出は濃すぎて、飲み込めるはずなどない。病気煩いの末にというケースと異なり、事故死は突然なだけに遺族が受け入れられないものだと聞いたことがあるが、二人の肌の冷たさは疑いようのない現実でもあった。


両親も、帰る家も、思い出の品も全てなくなってしまった。洋子の家にしまってある、あのウエディングドレスを除いて。


(続)

 

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(6)キいっちゃん~日下洋子のウエディングドレス

 

洋子の父、大友喜一郎は1947年、N市海沿いの漁師町に生まれた。実父は旧陸軍の所属で、集落にあった高さ約6メートルの丘の上で海を監視し、敵軍が押し寄せてこないかどうか目を光らせる仕事に就いていたが、終戦とともに闇市から仕入れた物資を転売する商いに転じた。今も続く大友雑貨店の初代になる。

 

物のない時代、実父の仕入れてくる物資は近隣住民にとって宝の山で、多くの漁師たちが刺身や干物、貝類などの海の幸と交換していった。それら海産物を隣町で人口の多いS市に運び、現金に換え、闇市での資金に充てるという好循環が商いを大きくした。

 

いきおい、大友雑貨店には多くの人が訪れるようになり、社交場のようになる。そうした環境が、後まで続く喜一郎の社交的な性格を形作った。

 

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100人がいたら100人が、喜一郎と言えば笑顔だと答えた。戦後の混乱期にカネとモノがある家に生まれれば、やっかみの対象にもなる。子供の世界でも、今で言ういじめに通じる暴力や冷遇が日常茶飯事だった。多くの人間が飢えに苦しんでいて、子どもも畑から野菜を抜いたり、うまいとされた赤犬を捕まえたりして空腹を紛らわせた時代。笑い顔が苦境を切り抜けるツールになると、体で学んだ結果だった。

 

長じるにつれ、周りに人の輪が絶えない青年に育った。家に鍵も掛けないような濃密な人間関係が支配する街では、それだけに諍いも多い。そうした揉め事のほとんどが喜一郎の元に持ち込まれ、恵比須顔で間に入ることで人脈がさらに拡大していった。消防団青年団の中核メンバーとして、街の祭礼の一切を仕切っていたのも大きかった。

 

不惑をいくつか過ぎた頃に市議会議員に推されると、あれよあれよと言う間に議場の人となった。持ち前の人当たりの良さと人脈、交渉力が最大限に生きたと言ってよく、初当選にして議員22人中の最多得票を数えた。そのまま4期、トップ当選を果たし、人をして来期は議長確実と言わしめた。

 

そうした立場が足かせとなった。

 

洋子が後に生存者に聞いたところでは、喜一郎は大地震の後、壊れた酒瓶の始末など雑貨店の後片付けに追われていた。そうしたところ、店内の天井付近に設置してあったテレビが津波警報を伝えた。喜一郎はN市役所に事実確認を取った上で妻芳江に避難するよう言い含め、避難誘導に当たるため店近くの消防出張所に出掛けて行った。

 

N市沿岸部の津波到達時刻は地震の約50分後。喜一郎はその間、ずっと路上に立って内陸側に避難するよう声を張り上げていたという。

 

「何だが選挙ん時の演説みでに見えでな。緊急時には違いねんだげっど、キいっちゃん見だらスッと落ち着いだんだわ」

 

遺体は、丘のそばで見つかった。「丘さ登れば大丈夫と思って、自分は逃げなかったんだべな。キいっちゃんらすぃわ」。津波は丘ごと呑み込んだ。9メートル近い大波だったと聞いた。

 

洋子は遺体安置所で喜一郎の顔についた泥を拭き落としながら、最後に交わした会話を思い出していた。確か夫の隆と結婚して3年が経とうとしていた頃だったと思う。

 

「隆君、洋子は料理どが洗濯だが、やってるがい? こいづは小学校ぐれがらアイドルだ洋服だってばっかりで、そういう方面はからっきしだったから」などと言っては、洋子をからかってきた。

 

続けて、「あとは孫だなやあ。議会でも消防団でも同世代との会話は孫と病気のことばっかりでや。こいづは内緒だげんど、議長さなったら孫抱いで議長席さ座ってみでんだやあ」。随分と直截な物言いに隆も返事に窮し、芳江が喜一郎をたしなめたものだった。

 

あの時は余計なお世話だと憤慨し、隆の手を引いてすぐに帰宅してしまったが、今となっては後悔ばかりが先に立つ。「洋服のことばっかり」は今でもそうで、仕事が楽しいからと子作りを後回しにしてきたことが悔やまれた。

 

「日下さん」

 

物思いにふけっていると、安置所に詰めていた警察官が近づいてきた。思えば彼らも、商売とはいえ大変だ。発災から3日目になるが、おそらく一睡もしていないのだろう。顔が土気色に近かった。

 

「日下さん、お掛けする言葉もないんですが…」

 

体調の悪そうな彼の、心の底から気の毒そうな顔を見て、洋子は全てを察した。

 

しばらくして、芳江の遺体が担ぎ込まれた。

 

(続)

 

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(5)大友雑貨店跡~日下洋子のウエディングドレス

 

  かつて、そこに雑貨店が存在した。漁港に面した5000人ほどが暮らす街の「冷蔵庫」だった。

 

 野菜も肉も、日用品も扱う言わば何でも屋だったが、漁港が近いのに魚だけは置いていなかった。理由は、ほとんどの住民が何かしらの形で漁業に関わっているような土地柄にある。家を留守にして戻ると、食卓の上に生の魚が数匹載せてあって、「いっぺ手に入ったがら。 太田」なんて近所の人の置手紙がある集落だった。どこの家も鍵を掛ける習慣はなかった。

 

 酒にタバコ、切手に駄菓子だって扱っていたから、老若男女問わず、朝から晩まで誰かしらが入れ替わり立ち代わりやって来る場所。それが洋子の実家だった。

 

 今、泥だらけの洋子の前には、何もない。正確には実家の間取りがハッキリと分かる布基礎が残り、あとは実家のどこかしらの端材が少しと、横倒しになった自転車が1台あるのみ。会社を飛び出し、一昼夜もさまよってまで探したかった両親の姿はどこにも見当たらなかった。

 

 「大友雑貨店」。銀色の自転車の荷台脇には、父が昔、赤いペンキで書いた店名のプレートが残っていた。大友は洋子の旧姓だ。醤油や酒を配達する父の背にしがみつき、荷台で揺られた幼い時分が蘇る。セピア色に染まった記憶が、父親や母親への思慕をさらに募らせる。

 

 「何で自転車が残っていて、人間はいないのよ…」。泥だらけのプレートを見やり、独り言ちた。

 

 歩道橋の階段に折り重なっていた人たちは、そのままにしてきた。数えたわけではないが10人ほどいて、女手一つでどうこうできるものではないと思った。不謹慎には違いないが、他人よりも肉親の行方だ。非常時なのだと言い聞かせ、かつての家路を急いだ結果が自転車1台だった。

 

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 しばらく、そのままたたずんでいたが、次第に日が陰ってきた。海のそばだけに風も強く、寒さが堪える。いったん夫の元に戻ろうかと考えた時、声が掛かった。

 

 「住民の方ですか? 再び津波が来る可能性があります。至急、避難所に戻ってください!」

 

 N市の消防団だった。沿岸部の地元分団員は行方不明者も多いので、内陸部の分団が肩代わりして捜索や救助に当たっているのだと言っていた。やはり大勢の人が亡くなったのだー。洋子は再び強い不安に襲われたが、「避難所」という言葉に一縷の望みをつなぎ、向かってみることにした。

 

 消防団の車に同乗して向かった避難所は人でごった返していた。洋子も通った小学校で、皆、床に直に座り、寝ている人もいた。トイレも大混雑していて、特に女子の方には長い列ができていた。「これだけ大勢の住民がいるなら」。少しは楽観的になれたが、一通り見て回っても両親の姿は見えない。ほかの住民同様、入り口に近いところの壁に張り紙をし、探している両親の名前と自分の携帯の番号、「心配しています。連絡ください」と書き置いた。

 

 しばらく待って、迎えに来てくれた夫の車に乗って自宅に戻った。電気やガス、水道こそ止まっていたものの、泥やがれきといった津波の痕跡すら見当たらないS市内を目にし、わずか15キロの間に天国と地獄の境目があると感じずにはいられなかった。

 

 夫によると、それでも食料や水を求める人たちがスーパーに群がっていたり、ガソリンスタンドに入りきれない車が車道脇にずらっと並んだりする光景が広がっていたという。勤務するアパレル系商社では被害こそなかったものの、幾人かの社員の親族が犠牲になり、休暇を取っていると聞かされた。

 

 「犠牲…」。昨日なら信じられなかった言葉も、何人もの遺体を目にした今は受け入れざるを得なかった。そして、どうか両親は無事でありますようにと願わずにはいられなかった。

 

 丸二日寝ていない状態で駆けずり回ったのと、自宅に戻れた安心感から、徐々に眠くなってきた。停電で暖房器具が使えず、布団にくるまっていたことも睡魔を強力にしたようだ。ウトウトし始めたところに、けたたましく携帯が鳴った。

 

 「日下洋子さんのお電話でしょうか。こちらはI警察署です。申し上げにくいのですが…」

 

 父が遺体で見つかった。

 

(続) 

 

 

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(4)遺体との遭遇~日下洋子とウエディングドレス

 

自動車専用道の上での足止めは結局、一昼夜に及んだ。海水が引かないどころか津波が第2波、第3波と立て続けに押し寄せてきたからだ。県道との立体交差付近で難を逃れた20人ほどが、肩を寄せ合うようにして寒風をしのいだ。

 

弱り目に祟り目とはこのことか、雪まで降りだした。出掛けに寒いとは感じたが、まさか鉛色の空の下で路上に放り出されるとは考えもしない。会社の制服のほかは引っ掴んできた上着1枚だけ。洋子はほかの女性と背中を合わせ、震えながら一晩を明かした。背中から伝わる人のぬくもりがありがたかった。

 

翌日の昼近くになって、ようやく自動車道の下に降りることができた。さすがに逸る気持ちは収まっていたが、悪い予感は消えなかった。

 

 「海まで3キロくらいあるここでさえ、2メートル近く水が来た…」

 

 海沿いの実家は雑貨店だ。地震で落ちた商品の後片付けでもしていただろうかと想像すると、薄ら寒くなった。

 

近くに乗り捨てたルポはもう、どこに流されたのかも分からなくなっていた。たとえ見つかったとしても、完全に水没しただろうから、もう動かせるはずもない。こんな形で愛車と分かれるとは思わなかったが、洋子は意を決し、雑貨店を目指して歩き始めた。

 

残った海水や泥に足を取られた上、流されてきたがれきや車、樹木などが至る所に散乱していたこともあって、歩みは遅々として進まなかった。スタンスミスはもはや、つま先どころか全体が真っ黒だ。靴の中まで泥が入り込み、愛用品への気遣いは早々にやめた。

 

半分ほど進んだところで、最も恐れていたことが現実となった。路上に、倒れている人がいたのだ。

 

以前、大型スーパーで胸を押さえて昏倒したおじいさんを見たことがある。だが、その時と違って明らかに姿勢がおかしい。県道脇の歩道に、ふくらはぎを上にして脚をだらんと投げだし、上半身は歩道沿いの側溝に垂れ下がっている。何より、先ほどからピクリとも動かない。

 

死んでいる―。そう考えた瞬間、心臓が二つにでもなったかのように脈打ち、胸苦しくなった。

 

昨日からずっと考えないようにしていた。

 

見知った土地が濁流に呑まれ、家が、車が、大きな木々が流され、海水が渦を巻いている様子を見ても、人の死と結び付けなかった。結び付けたくなかった。人が死ぬことを認めれば、海沿いにいたはずの両親は孫の顔を見られないことになってしまう。

 

「大丈夫。倒れた醤油瓶を元の位置に戻しながら、お父さんが『母さん、この瓶も割れてら。大損だなやあ』とか、こぼしているに決まっている」

 

嫌な考えを振り払うように、自らにそう言い聞かせて前進を続けた。海に近づくにつれ、泥とがれきで歩きづらさが増す。泥から脚を引き抜くたび、スタンスミスが脱げる。履く、脱げるを繰り返しながら、実家のある地区へと渡る歩道橋までたどり着き、一気に駆け上った。

 

声を失った。

 

歩道橋の上から見えるはずの景色が、ない。建ち並んでいた家。かまぼこ工場。神社。すべて消えてしまっていた。洋子の実家がある辺りも、建造物の基礎だけを残した無人の泥地が広がっていた。

 

ふらふらと歩道橋の上を歩き、降りる階段を見て、今度は悲鳴を上げた。

 

大勢の人が積み重なって、うつぶせに倒れていた。逃げようとして階段を上ったところに津波が押し寄せたのか。津波で流されてきて、階段でせき止められたのか。分かるのは誰一人、動く者がいないということだけだった。

 

(続)

 

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(3)黒い布~日下洋子のウエディングドレス

 

勢い込んで飛び出したはいいものの、S市を南北に貫く大動脈、国道4号に出るまでが大変だった。考えることは皆、同じようで、会社の前の市道は国道へ入ろうとする車で常にないほどの大混雑だった。

 

10分、いや20分だろうか。ジリジリとする気持ちを抑えながら、愛車ルポのステアリングをたたく。タマ数の少なさと飾り気のない外装がたまらなくて「則買い」したお気に入りのコンパクトカーだったが、この時ばかりは背の低さが災いした。前が見えない。間の悪いことに、一つ前はキャンプ好きの男性らに人気のワンボックスカーだ。ほとんど空気を運ぶだけだろうに、何て邪魔な箱だろう。洋子は八つ当たりにも似た気持ちで毒づいた。

 

国道に入ってからは比較的スムーズだったが、25分ほど南下して実家のあるN市内まで来ると、途端に渋滞が再発した。向きは洋子と逆。海手から大量の車が押し寄せ、われ先に前へ進もうと躍起になっていた。クラクションの音もけたたましい。そんな長蛇の車列を横目に海へ向かう県道に入ると、反対車線のドライバーが窓を下げて大きく口を開けていた。

 

「…かえせ!」「…ちゃだめだ!」「…どれ!」

 

窓を開け、ようやく意味を呑み込む。海から津波が押し寄せているから引き返せ、という忠告のようだった。

 

県道は国道からN市の沿岸部へと直結している。津波が来るとすれば、波よけとなる住宅地よりも、摩擦の少ないこの道沿いを遡上してくるということか―。

 

ほんの一瞬、躊躇したが、実家はその沿岸部にある。窓を上げて頭を下げ、県道を東へと―、海へと向かった。ルポと同じ方向に走る車は皆無だったが、渋滞にはまって焦燥感が募った直後だったこともあり、恐怖感よりも前進できることによる高揚感が勝った。

 

その直後だった。自動車専用道路の高架をくぐり、地元のランドマークとなっている精麦会社の大型タンクが見えてきた辺りで黒いモノが目に入った。

 

後に「海から壁が迫ってくるようだった」という表現を耳にしたが、洋子には最初、壁というより巨大な布に見えた。真っ黒なビロードの布が徐々に見慣れた街を覆っていき、次第にこちらへと近づいてくる感じだ。布が、まるで意思を持ったかのように家々を、木々を、街を呑み込んでいった。

 

怖くなってルポをUターンさせようとしたが、反対車線はここでも渋滞していた。慌てるだけで何も思いつかずにいると、バックミラーを見た反対車線のドライバーたちが車を降り、ルポのドアも開けて洋子を引きずりだした。窓をノックして声を掛けたが、前を凝視しているだけだったから、と言われた。

 

「危ねど、おめ!中さいだら死んですまうど!高速の上さ走れ!」


大声に促されて我に返ると、必死になって駆けた。自動車道の高架までは200メートルほどか。オシャレに気遣うだけの10代を過ごし、部活など運動らしい運動はしてこなかったが、自分でも驚くほどの速さで手脚を動かすことができた。高架の橋脚の擁壁は2メートル近くもあって上れなかったが、先に上がった男性たちが引っ張り上げてくれた。

 

「ゴッパァン!」

 

洋子が擁壁の上に脚を引きずり上げるのとほぼ同時に、真っ黒な布が、いや、布に見えた汚泥混じりの海水が、擁壁に当たって凄まじい音を立てた。

 

道路上まで這い上がって路面に手をつき、荒い息を整える。顔をもたげると自動車道の周りは一面、布に覆われて真っ黒に染まり、橋脚の周囲では海水が渦を巻いて流れていた。渦の中では海手から運ばれてきた車や樹木などがクルクルと回っていた。

 

ふと足元に目をやると、愛用のスタンスミスのつま先が黒く染まっていた。

 

(続)

 

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(2)届かぬメール~日下洋子のウエディングドレス

 

父親とは3日後に対面できた。正確に言えば父親の遺体と、だが。

 

こういう時、「亡くなったとは思えないほどきれいなお顔で」なんて言葉を耳にしたことがあるが、洋子は、それが平時だからこそ言える決まり文句なのだと身をもって知った。仮設の遺体安置所となったN市の体育館に運び込まれた父親の遺体は、それにはほど遠い状態だった。

 

顔はもちろん、首筋や手に無数の、そして深い切り傷がある。津波が呑み込んだ膨大な量の木―材木というよりは押しつぶされた家屋のがれきやなぎ倒された樹木の枝だ―が地表を洗い流すうち、一緒に流れていった父親を切り裂いた。その証に、衣服をまとっていた体や腕、脚には傷らしい傷はほとんど見当たらなかった。

 

津波が巻き上げた海底の土なのだろう、鼻の穴や口の中には黒い泥が詰まっていたという。さすがに、それらは安置所に詰める警察官たちが取り除いてくれたそうだが、当然、取り切れなかった泥がそこかしこにこびりついていた。

 

「お父さん…」

 

 それ以上、言葉にならなかった。次から次へと涙があふれてきて、父親の顔をぬらす。泣きじゃくりながら、涙とハンカチで懸命に泥を落とし続けた。断水が続き、商業施設も閉まっている今、水は貴重品だった。

 

大津波を引き起こした大地震に襲われた時、洋子はN市に隣接するS市の勤め先にいた。2歳にもならない時分、やはりとてつもなく大きな地震に遭遇したことがあると両親に聞いたことがあるが、もちろん覚えてはいない。記憶にある限りで最大の揺れだった。

 動悸が収まらない胸に時折、片手を当てつつ、放心状態で書棚や机の上から落ちた備品を片付けていると、上司が眺めていたテレビの画面に速報が流れた。津波警報だ。S市を含め、沿岸部に数メートル規模が押し寄せる可能性があるという。

 

胸に当てた手を軽く握り締めながらも、次第に冷静さを取り戻しつつある頭が海から社屋までの距離を計算する。15キロというところか。社屋は小高い場所にあるし、自宅もマンションだ。まず、大丈夫だろう。車で営業に出ていた同僚である夫からも、無事を知らせるメールが先ほどあった。

 

メールを打ち返しながら、ふと実家のことが頭をかすめた。あそこは海から数十メートルしかない。

 

 本当に何メートルもの高さの津波が来たら―。

 

 幼い頃から慣れ親しんだ、あのキラキラした海が牙をむくことなど想像できなかったし、2歳の時に起きたというブロック塀が倒れるほどの大地震でも津波は来なかった。経験則を基に大丈夫だと自らに言い聞かせるが、不安は膨れあがるばかり。携帯を持つ手が、じっとりと汗をかいていくのが分かった。

 

「お母さん、大丈夫?」

 

 母親のメールに短く送信した。数分待ったものの返信はない。背中や脇の下にも嫌な汗が流れだすのが感じられた。即座に父親の携帯を鳴らしたが、電話会社が不通を伝えるだけで、つながらない。自宅の電話も同様だった。

 

「巨大な黒い波が水田を覆っていきます。ここはS市の沿岸部です」

 

手の汗を髪の毛や制服で拭いながらメールを打ち続けていた時、テレビ局が津波に呑み込まれる水田地帯を映し出した。社内のあちこちでどよめきと悲鳴が上がる。車で何度となく脇を通ったことがある景色。あそこから10分ほど南に下れば洋子の実家がある。

 

「ちょっと実家を見てきます」

 

ロッカーから上着をひったくるように取り出すと、そう早口で上司にまくし立て、車で飛び出した。今にも雪が降り出しそうな寒い午後だった。

(続)

 

 

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(1)山の上の家~日下洋子のウエディングドレス

 

 日下洋子の自宅は東北地方のN市の山の上にある。文字通り、標高210メートルの里山の上に建っている、木造2階の一般的な住宅だ。

 

 ご近所の造りも似たり寄ったり。判を押したように木造2階建てで、車が2台置ける駐車場と、ささやかな庭がある。N市のお隣、100万都市のS市の土地価格高騰のあおりを受け、デベロッパーがN市との境にある里山を開発し、無理やり切り開いた団地だ。

 

 N市であってN市ではない、さりとてS市でもない微妙な位置付けの団地だが、土地の取得単価はS市の5分の1。一戸建てへの憧れと、特に親からの相続が期待できない次男、三男らの若年層が多く飛び付いた。

 

 デベロッパーが整えた道路や公園、遊歩道があり、開発から日が浅いために新しい家が多いこともあって、小ぎれいな街に見える。とはいえ、ここが山の上には違いない。かなりの急勾配の道を上ってこなければならず、徒歩では団地の入り口まででさえ50分ほど掛かる。自転車ならば多少の時間短縮が見込めるが、勾配のきつさを考えれば、サドルにまたがることさえ尻込みするほどだ。ありていに言えば、車がなければ孤立してしまう人造の街だった。

 

 「そうは言っても、この世から車がなくなるなんてことはないだろう」。価格の安さに飛び付いた買い手が、その若さの勢いも手伝って、そのように考えた数年後、認知症などを背景とした高齢ドライバーの事故が社会問題化。「安物買いの銭失い」とはこのことかと、心の隅に後悔の澱をため込む住民も顕在化しつつあった。

 

 洋子はそうした住民たちとは一線を画していた。確かに低廉な土地価格は魅力的ではあったが、一番の決め手は団地の標高だった。それが高ければ高いほど、家屋に対する洋子の安心感は高まった。生まれ育ったN市で、この団地以上に空に近い場所はなく、バスの本数が少ないことや山の上にスーパーがないことなど、デベロッパーが口にする重要事項説明もそこそこに、夫を肘で突いて契約書に判を付かせた。

 

 洋子は1977年、N市の沿岸部に生まれた。生家は小さな雑貨店を営んでいた。面倒見の良さから相談事を持ち込まれることが多い店主の父親と、店番をしながらご近所さんに洋裁を手ほどきする陽気な母親の間に生を受けた。少女時代は海中を泳ぐ魚を見るのが大好きで、学校から帰るとランドセルを放り投げ、店からほど近い漁港の岸壁に駆けて行ってはキラリと光る銀鱗を飽くこともなく眺めた。

 

 思春期を迎えると磯の臭いが気になるようになり、漁港から遠ざかる代わりにその世代の女の子らしく流行を追い求めるようになる。当時、一世を風靡したアイドルグループにのめり込んだり、ティーン雑誌の特集を熟読しては洒落た装いに見えるよう努めたりした。

 

 就職も「オシャレ路線」の延長線上で決めた。特段やりたい仕事がある訳でもなし、安く洋服が買えるかもしれないという邪な気持ちから高校卒業と同時に18歳でアパレル系の商社に潜り込み、磯の臭いがする生家を離れてS市内で1人暮らしを始めた。

 

 それから15年。要領はいい方だったので仕事は早くに覚え、社内で夫と出会って結婚もしたが、2人に増えた分だけ広いマンションに越しただけで、S市に住み続けた。生家には盆暮れに顔を見せに買えるくらいで、いつしか磯の臭いも忘れてしまった。

 

 そんな折り、あの大津波が押し寄せた。実家は基礎部分だけを残して全て流失。父母とも連絡が付かなくなった。

(続)

 

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