あの日を境に

巨大災害によって人生が一変した人々の群像劇

(54)幕間~木下俊道の落慶法要

 

 はい、私が木下です。お電話をいただいた東北新聞の方ですね。どうぞ、どうぞ、奥の方へ。先だっては記事、ありがとうございました。落慶法要の。おかげさまで再建をご存じなかった方からもお電話をいただいて。

 

 中には「菩提寺もないんじゃ戻れないと思っていたけれど、これでN市に帰ることができる」なんて言う被災者もいたんですよ。あの津波で内陸部に避難したまま、かなりの時間がたってしまいましたからねえ。その土地での生活に慣れると、戻ることが段々と難しくなるものです。そうすると、次第にもともと住んでいた土地の情報に疎くなって、道応寺が再建するかどうかに思いが及ばない人もいたんでしょうね。

 

 私、思うんですけどね、その土地に住むかどうかを決める要素って学校や病院、スーパーとかいろいろあるんでしょうが、寺もその一つなんじゃないかと。特に、ここのように何百年も続いた漁師町だと、先祖代々の墓というものが誰でにもあるものです。今回の津波はそうした過去とのつながりを根こそぎ絶ってしまった。自分が戻る住処があるかどうかだけでなく、先祖の居場所もあるかどうか。記事のおかげで、そのあたりも重要な問題なんだなあと思いました。

 

 え? あの記事は記者さんじゃないんですか? そういえば、あの日、写真を撮っていた方はもう少しお若かったかもしれないなあ。おや、次長さんなんですか。失礼。偉い方だったんですね。いやいや、ご謙遜なさらず。

 

 それで、今日は? 後日談か何かお聞きにいらしたのかとばかり、てっきり。はあ、あの記事の写真で気になるところが? 何でしょう?

 

 ああ、この手が何かを触っているように見えると。ははあ、さすがですね。若い記者さんとは目の付け所が違うな。確かに、払子を持っていない方の手はお腹に触れているんですよね。この写真。参ったな。この写真を撮られた後はまじめな顔をして読経していたんですが、この瞬間は別のことを考えていましてねえ…。

 

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 次長さんはお子さんがいらっしゃいますか? ほう、三人も。すごいですねえ。私は息子が一人だけおりました。ええ、過去形なのは、そうです。あの日に犠牲になりましてね。俊大と言いました。5歳でした。

 

 いろいろな業界のことをご存じでしょうが、お寺さんのこともお詳しいですか? ご多聞に漏れず、こうした世界はなかなか、こう、う~ん、女性から理解されにくいところがありましてね。いわゆる嫁の来てがないものです。お恥ずかしながら私もそうで、30歳をだいぶ過ぎてから、他寺の娘をもらいました。

 

 ですから必然的に子を授かるのも遅くてですねえ。その分、俊大が生まれた時は、それは嬉しかったものです。サラリーマンの方と違って自宅が仕事場でしょう。ですから、何もない日は日がなおんぶして作務を行ったものでした。風呂に入れ、離乳食を食べさせ、爪を切って、鼻を拭いて、おむつを替えて。授乳と寝かしつけは女房にかないませんが、それ以外はたいていやりましたよ。

 

 動き回るようになり、言葉をしゃべるようになり、どんどんはつらつとしてきた。どうしてなのかってくらい、戦隊ヒーローモノにもはまりましてね。一緒にテレビを見たものです。「トッキュウ1号!」なんてね。トッキュウジャーという番組が大好きでして。よく悪役をやらされました。「ううっ」ってこう、胸を押さえて切られた振りをするんですよ。懐かしいなあ。

 

 いやいや、語りだせばキリがないですが、思い出は次から次に湧いてくるものですよね。我が子のこととなれば、親はそうしたものだと思います。

 

 それが突然、断ち切られてしまった…。

 

 時折、自分は破戒僧なのかと思いますがね。人は亡くなるものです。あとに残される人々を導き、諭すのが我々僧侶の務めなのでしょうが、こと自分のこととなると、言うは易しです。何を修行してきたのか、心は千々に乱れるだけで。そんな私の心のよりどころが俊大の遺品なんです。あの写真の時、懐に入れていました。

 

 トッキュウジャーの…。どうってこどのない、プラスチック製のコップで…。白くてね、戦隊の5人がポーズを取っているプリント化粧が施されでるやづで。イオンのね、そういうの売ってるコーナーで、買ってくれってせがむもんでね。

 

 オレ坊主だがら、目立づんだ。どごさいでも。それが市民がいっぺいるどごで、息子が床に寝転がって、買ってけろ、買ってけろってわ言われだら、おしょすぐて。靴もそうだし、鉛筆も、箸もそんだがら、コップまでいいべって思ったげっと、なんだが泣いでる俊大見だらもぞこぐなって。

 

 「父ちゃん、ありがと」って、ぺこってお辞儀したんだ。あんとぎ。忘れらんねよ。普段は暴れまわってるよなワラスがね、ぺこってわ。そっからいぐらもしねで、津波だおん。仏様はいねのがって思ったよ。正直。やっぱす破戒僧だな。

 

 それが見っかった。裏にや、きのしたとしひろって、マジックで書いであったの、泥の中がら出できた時はあ、なんだもながったね。泣いだよ。まだ自分で字も書げながったワラス連れでってしまうんだおん。仏様。

 

 寺ねぐなった時ね、ホントはもう再建なんてする気おぎねがったのわ。なんもやる気おぎねがったもの。ほんでも、あのコップが背中押してくれだとごもあんだよね。坊主だがらさ、ほがに犠牲さなった人のとごさお経上げさいぐんだわ。みんな泣いでんだ。当たり前だげっと。みんな、おらいと同じだど思ったら、泣いでばっかりもいらんねって思えたんだ。なんもねぐなったがらね、ほとんどの人が。遺品見っかったオレはまだ幸せなんだって。

 

 まだまだ、この町は人のいね町だげんと、寺はねえとなや。みんな、戻ってこれねべ。生ぎてる人間だげでねんだ。死んだ人にも盆や彼岸に帰ってくるとご、残しておがねとな。俊大の帰ってくっとごも、死ぬまで守るつもりだよ。次長さん。

 

(木下俊道・完)

 

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(53)遺品と共に~木下俊道の落慶法要

 

 木の香りが漂う本堂に歩みを進め、居並ぶ檀信徒の間を通って席に着く。正面には木魚と鈴(りん)。手には払子(ほっす)と経典。本山や貞観寺など縁のある寺から僧侶が駆け付け、木下の後ろに並んで読経を始めた。

 

 再建を果たした道応寺の落慶法要。本堂はまだ柱組の上に大屋根が架かっただけで、柱の周りを紅白の幕で囲ったような状態だったが、日取りの都合などもあって見切り発車となった。まあ、後は壁をはめ込んで外構工事や鐘楼造りなどが残された程度なので、問題はなかろうということだ。

 

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 ここまで長かった。もう何度となく唱えた真言を口にしつつ、頭の中で来し方を振り返る。400年以上続いた道応寺の子として平々凡々と生きてきて、幸いにも妻子を得て暮らしていたところ、個人の力などでは抗いようもない大災害に見舞われた。結果、自らを育ててくれた両親と、掛け替えのない一粒種を失った。そして、この寺も。

 

 堂宇に足を踏み入れた際、檀信徒の後列に、K市に住む夫妻の姿があった。道応寺のあるN市の南隣、I市で警察官だった息子を津波で亡くしたというお二人だ。K市の菩提寺が無住となり、縁寺だったことから世話をしたことがあった。夫妻が訪ねて来た時、木下はちょうど被災直後の道応寺で後片付けに追われていた頃だったこともあり、顔を見た瞬間にあの頃のことがまざまざと蘇ってきた。

 

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 両親と一人息子の俊大を失って間もない頃でもあった。自らの手で俊大の遺体を抱き上げたとはいえ、前日まで元気に走り回っていた我が子の死など、そう簡単に納得できるものではない。僧侶としての自分とは別に、幼子の痕跡を探し求める父親の自分がいた。がれきをどけ、墓石を片付け、泥をかきつつ、靴やカバンなどが見つかるたびに目を凝らした。

 

 そんな日々が一カ月以上は続いただろうか。陽にぬくもりを感じるようになったある日、もともと池のあった場所の泥をすくっていると、泥の中から見覚えのあるコップが転がり落ちた。バケツに汲んでおいた真水で洗い、裏返すと名前が書かれていた。「きのした としひろ」。何にでも氏名を書くよう要求してくる幼稚園に通っていたため、持ち物に名前を書く癖があったことが幸いした。

 

 一人息子のたった一つの遺品となった。俊大が好きだった戦隊ヒーロー「トッキュウジャー」のプリント化粧が付いた品だ。貞観寺に間借りしている墓に毎日備え、ほぼ肌身離さず持ち歩いている。今も着物の中に忍ばせている。

 

 思い出にふけりつつ、コップの入った懐を触りながら読経を続けていると、何度かカメラのフラッシュがたかれた。東北新聞の記者だ。「せっかくの再建だから」。檀信徒の総代が記念に記事を書いてもらおうと呼んだそうだ。せいぜい男前に撮ってもらおうかと、残りは真剣な表情で経典を繰った。

 

 「ここまで、本当に長かったです。あれから7年近く。ようやく再建にめどが立ちました。一日も早く完成させ、被災した住民の心のよりどころとなれるよう頑張りたいと思います」。記者のインタビューにそう答え、一連の儀式が終わった。

 

 「被災住民のよりどころに N市の道応寺が再建」

 

 翌日、東北新聞の県内版に記事が載った。木下が懐を押さえながら読経している写真が添えられていた。

 

(続)

 

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(52)換地処分~木下俊道の落慶法要

 

 貞観寺の桜は、S市内でも名高い古木の一つだ。名所というほどではないにせよ、荘厳にして優美な観桜の地として知られる。まだ人気の少ない早朝、木下はあれから6度目の花を咲かせた枝を見やった。

 

 そのまま水の入ったコップを手に、墓地区画に足を運び、一つの墓の前に腰を下ろす。コップにはトッキュウジャーのプリント化粧が施されている。一人息子だった俊大の遺品だ。「桜、咲いたなあ。今年もきれいだど。見だが?」。墓に話しかけながら水を供える。妻の真智子の先祖が眠る墓に、俊大も交ぜてもらっている。あくまで仮に、なのだが。

 

 俊大同様、両親も津波の犠牲になったことで、木下は道応寺の住職となっていた。寺は流失したため、檀家の希望もあって建て直す腹は固めたが、まちづくりを先導するN市が迷走を重ねたこともあり、未だ再建ならなかった。ために、三人は地元で荼毘に付したものの墓は貞観寺に間借りする状態だった。

 

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 原因は「現地再建」というN市の方針にあった。

 

 津波に襲われた自治体はたいてい、市街地を海から離して再整備する施策を取っていた。東日本大震災は数百年に一度というレベルの津波だったので、それに合わせるのは不合理だとしても、海辺に居住地を造るのは論外という考え方だ。

 

 N市は唯一、その方針に異を唱えた。海に面した場所こそ居住を制限したが、数百メートル離れた場所に5メートルの盛り土をして居住区を整備し、旧来の住民に提供したいという。海に愛着が深い住民が多いとの理由からだったが、もちろん住民の中にも反対意見は根強く、市議会がまとまらず住民運動まで起きて混乱を極めた。

 

 結局、県の裁定もあってN市の方針が容れられたが、一連の流れにより他市町よりも大幅に復旧・復興が遅れることとなった。いきおい、道応寺の再建もずれ込み、檀家も他の土地に移り住んだり、この間に亡くなったりしていた。何より津波に洗われた場所にどれほど住民が戻るのか不透明で、笛吹けども踊らず、となることが懸念された。

 

 まちの精神的よりどころであり、檀家の墓を管理するのが寺だ。それなのに住民が根付くのかどうか分からず、墓も何基再建されるのか見通しが立たない。寄進もあるとはいえ、被災した檀信徒に無理は言えない。再建には膨大な借金が必要となる。本当に大丈夫なのかーー。不安、焦燥、檀家の願い、一人息子の墓の行方…。さまざまな感情がない交ぜになり、心が折れそうになる日が続いた。

 

 そんな木下を支えてくれたのが真智子だった。

 

 「もう、あたしたちに失う物なんて何もないじゃない。大丈夫、大丈夫。もう無理ってなったら二人して俊大に会いに行こ」。そう言って肩をたたいてくれた。

 

 確かに一度はすべてを失った身だ。これ以上のどん底など、ありはしない。なによりも自分は親として、早世した子どもの墓を、生きた証を残してやる必要がある。自らにそう言い聞かせ、6度目の春を迎えた。

 

 「換地処分のお知らせ」。その日も貞観寺でのおつとめを終え、居間に戻ると、N市からの封書が届いていた。もともとあった道応寺の土地の分だけ、新しい居住区の一角に換地される土地面積と場所が決まったという通知だった。

 

 これで俊大の墓が建てられる。「ぅしっ!」。木下は小さく声を上げ、拳を固めた。

 

 (続)

 

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(51)トッキュウジャーと裂きイカ~木下俊道の落慶法要

 

 俊大が遺体で見つかった翌日、木下の父親と母親も相前後して発見された。もちろん、息をしていなかった。

 

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 災害が起きて行方不明者が出ると、テレビではよく「72時間の壁」などと語られる。飲まず食わずで、寒空の下で生きていられる限度とされ、捜索が急がれる。ただ、あくまで理論上の話で、後に最大8メートル以上と分かった津波が陸地を洗った場合、それは「希望的観測」と同義だった。

 

 我が子が犠牲になったことで木下が冷静だったとはとても言えないにしても、大人でもある両親は避難しているだろうと楽観していた。それだけに気持ちの落ち込みは激しく、行方不明は死とイコールだと吐き捨てた。

 

 父と母、長男を失い、寺が流失したことで生業も失った。妻の真智子の実家、S市内陸にある貞観寺に身を寄せ、しばし茫然自失の日々を送った。

 

 貞観寺の濡れ縁に日がな一日、座り込み、春まだきの陽光を浴びて無為に過ごす。実家に戻ったことで、真智子は家業や家事の手伝いに忙しく駆け回っていたが、木下は何もする気が湧き起こらなかった。夜になると、寺の敷地内に停めたムーブの中に籠り、ご進物の清酒をあおった。

 

 あては、いつものように裂きイカ。俊大がザリガニ釣りのためにくすねるため、震災前は減りが早かったのに、今はなかなかなくならない。寒気を覚えてエンジンを掛けると、カーステレオから流れる音楽は、俊大が乗った時にいつもかけていたトッキュウジャー。自らの生活に我が子が思った以上に浸透していたことをあらためて思い知らされ、その子がもういないことが、なおのこと辛くなった。

 

 「くじけそうな時でも 想像すれば不可能なんてない きっとできるはず!」

 

 子供向け番組だけに、やけに前向きな歌詞が今は癇に障る。消そうとした瞬間、助手席に義父が滑り込んできた。「乗り込め 俺たちのエクスプレス~♪」。鼻歌交じりに歌を続ける。「俊大、好ぎだったもんなあ、この歌。俺のクラウンさも積んでっと」と語り、裂きイカに手を伸ばす。

 

 ひとしきり俊大の思い出話をした後、義父は諭すように水を向けてきた。

 

 「その俊大ば、いづまで手元さ置いどぐ気や? あんだも坊主だ。俊大が49日の修行に出るごど分がってっぺ。きちっと送ってやんねどなんねべ。俺にとっても孫だし、あんだの父親なんてわ、小坊主の頃からもう半世紀以上の付き合いだど。辛えのは分がるが、俊大、今のあんだ見で喜ぶがや」。いつになく真剣な表情が、胸に刺さった。

 

 翌日、木下はN市に戻り、斎場に出向いた。津波で炉が塩水に漬かったと聞いたが、突貫で復旧させたという。近在の僧侶として場長とは顔見知りだ。木下は、自分の両親と息子が犠牲になったこと、今は妻の実家に安置しているが、地元であの世に送ってやりたいこと、その際は自分が読経したい旨を告げた。場長は何も言わず、木下の肩をたたいた。

 

 「トンネル抜けたら 明日に向けてノンストップ! 列車戦隊 発車オーライ! トッキュウジャー」

 

 いつになく、カーステレオの音楽が身に染みる。「俊大ぉ…。父ちゃん、トンネル抜げれっぺが?」。こらえきれなくなり、ムーブを路肩に寄せて肩を震わせた。

 

(続)

 

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(50)享年6歳~木下俊道の落慶法要

 

 「おい、そっち、そっと下ろせよ。崩れっかんな」

 

 道応寺跡に6、7人の消防団員が駆け付け、がれきの撤去を手伝ってくれていた。木下が一人息子の俊大の名前を大声で叫びながら、がれきをよけていたからだろう。行方不明者の捜索に回っていた隊が聞きつけ、集まってくれたのだった。

 

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 「住職さん、この子は?」。団員の一人が木下に尋ねる。昨夜の津波で地元の消防団員のうち何人かが犠牲になり、その他のメンバーも被災して身動きが取れないということで、内陸部の団員が駆り出されていた。ために、木下がまだ住職ではないことを知らないようだったが、そんなことよりも男手が増えたのはありがたかった。

 

 「息子です」。汗だくで、両腕を血だらけにした木下が短く答えると、団員たちの腕に力がこもった。大量に覆い被さっていたがれきをどけ、重い墓石を脇に転がしていく。次第に俊大の体が露わになってきた。泥の中でうつぶせになり、ぴくりとも動かない。

 

 顔が見えたところで引きずり出し、肩を揺する。「俊大、俊大!」。だらりと垂れた腕が全てを物語っていたが、木下は絶叫にも似た声で名を呼び続けた。そうすることで我が子が戻ってくるかのように、繰り返し名を連呼すると、一息ついて、ささやくように話し掛けた。

 

 「俊大ぉ、今日は土曜日だぞ。トッキュウジャーの日だべ。なに寝てんのや。今はちょっとな、テレビないんだげっと、誰か録画してっかもしゃねど。俊大ぉ…、なじょすたのやぁ…、ほれ、起きれでばぁ…。目ぇ開げでけろ…」

 

 木下の声が次第に小さくなっていくのと対照的に、真智子の嗚咽が激しくなっていった。消防団員は皆、親子に背を向け、帽子を目深に被って目を覆った。

 

 小さなころから大のいたずらっ子だった。

 

 まだ乳飲み子だったころから、食卓に上がった焼き肉用のサンチュを少しずつちぎっては「はい、はい」と木下に手渡してくるのが好きだった。やに下がった木下が口にすると、自らも口に入れるが、まだ乳歯が数本しかないため飲み込めず、ところかまわず吐き出した。

 

 3歳くらいになって走り回れるようになると、禁じているのに本堂に入り込んでは木魚を叩いて困らせた。「もんもん、もんもん」。何かをつぶやく声は木下の読経を真似たものだと後に分かり、苦笑したことを覚えている。

 

 4歳のころにはご多分に漏れず、戦隊ヒーローにドはまりし、墓地を走り回っては変身ポーズを決めた。墓参り客とよく衝突するので、たしなめはするのだが、聞きはしなかった。ごっこ遊びに飽きると、決まって池に向かい、木下の酒の肴であるイカクンをたこ糸に吊してはザリガニ釣りに興じた。「父ちゃん、ザリガニって臭えー」。釣れたら釣れたで素っ頓狂な声を上げながら見せに来て、法要などで説教中の木下を困らせた。

 

 もう、あの笑顔を見られない。 まだ、たったの5歳だったのに。

 

(続)

 

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(49)墓石の陰に~木下俊道の落慶法要

 

 道応寺は創建600年以上と伝えられ、N市でも古刹の部類に入る。最初の住職が室町時代ごろの人ということになるが、寺には実際、そのぐらいの年代の物とみられる過去帳も残されており、あながち誇張とばかり言えない。立派な瓦ぶきの屋根は戦後、地域の寄進によって建て直されたのだと聞いた。漁師町だけあって海で亡くなる檀信徒が多く、死というものが身近だからこそ、近在の崇敬を集めてきた。

 

 「線香臭い」「お前の頭も木魚だ」などと子どものころは馬鹿にされ、木下は寺の子であることが嫌になった時期もあったが、大きな瓦屋根が辺り一帯のランドマーク的存在になっていることは誇らしかった。

 

 その大屋根が見当たらない。屋根どころか柱も壁も、あるべき場所から消失していた。堂宇の前にはそれこそたくさんの墓石が林立していたが、それらも外柵ごと流されてしまっていた。大屋根が張り出した本堂と庫裏、墓石がすべてなくなり、爆撃でも受けたかのように漁船や漁業用の浮き、どこかの住宅のがれき、水没した車がヘドロやワカメがへばりついた状態で散乱していた。

 

 木下と妻の真智子が道応寺を――、正確には道応寺があったはずの場所を訪れたのは3月12日午前。避難所の小学校から木下のムーブに乗ってやって来た。いつもならば郵便局の角を曲がって、雑貨店の脇を入ってと目印があったが、それらも皆、流失した。代わりにがれきが道をふさいでいたり、漁船がコンクリート造の建物の2階に突き刺さっていたりし、方向感覚を失いながら何とかたどり着いた。

 

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 「こごだよな、寺」。木下が真智子を振り返る。真智子も驚愕した様子で、口元に手を当てたまま言葉が出ないようだった。

 

 創建年代によって違いはあるようだが、寺の建物はたいてい、束石の上に柱組が乗っかっただけの構造をしている。いきおい、津波の影響を受けやすかったのだろう。ほとんど何も残されていなかった。墓石も同様で、重量はあるものの、土台に載せてあるだけなので、やはり波に持っていかれたようだった。

 

 道応寺の脇、正確には寺と漁港の間には、藩制時代に掘削された堀が通っていた。寺の敷地はその堀に向かって一度高くなる築山があり、その手前に多くのがれきがたまっていた。がれきの下には墓石なのだろう、人工的に切り出された黒御影石がいくつも横倒しになっていた。津波に押し流されるうち、そこにたまったのだろうと想像された。

 

 何か見知った物はないかと、木下が築山の方へと足を向けると、手前にあったはずの池も、津波が運んできたとみられる土砂やがれきで埋まってしまっていることが分かった。真智子の話では、一人息子の俊大が最後に目撃されたのはこの池だ。まだ冬眠しているであろうザリガニをつついていたという。では、俊大はどこに――。胸が苦しくなり、木下は右手で胸を押さえた。

 

 木下はそのまま、さらに歩みを進めた。築山のふもとには、まるで津波がふるいにでも掛けたかのように、重い墓石が下に、がれきなどの軽い木組みが上の方にたまっていた。近在にある寺は道応寺だけだ。となれば、墓石は道応寺の敷地から流されたことになる。墓石は池を取り囲むように並んでいた。

 

 木下は突如、がれきの山へと走りだし、墓石の上に乗った物をどけ始めた。元が住宅建材だから、ところどころ釘が飛び出している。満足な装備もなしに、避難所から駆け付けたまま取りかかったものだから、木下の両腕はすぐに血だらけになった。委細構わず、上にある物から順に回りに投げ捨てていく。3月とはいえ、次第に汗が噴き出してくる。そのうち、俊大がこの下にいるのは確実なような気がしてきて、しまいには大声で叫んでいた。

 

 「俊大! いるなら返事しろ! 俊大! どこだ!」

 

 そのまま1時間以上、がれきと格闘した。禿頭に汗が浮き出し、滝のように流れる。汗が目に入る。腕に付いた傷にも汗がしたたり、染みる。それでも、我が子がいると思えば、何物でもなかった。だんだんと軽いがれきは減ってきて、墓石がよく見えるようになってきた。もう少しだ。いるはずだ。まだ1日だ。大丈夫。きっと、そのうち「お父さん」という声が聞ける。「大友家代々の墓」と彫られた墓石が見えたところで、その願いは虚しく打ち砕かれた。

 

 幼い子どもの細い脚が見えた。俊大のお気に入りだった「トッキュウジャー」の靴を履いていた。

 

(続)

 

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(48)家族3人行方不明~木下俊道の落慶法要

 

 どの道を通ってN市に戻ったのか、正直なところ今でも思い出せない。覚えているのは愛車ムーブのタイヤが奏でるスキール音だけだ。途中、カーブを何度も異常な勢いで曲がったからだろう。幹線道路は渋滞でどうにもならないと見切りをつけ、地元の強みを生かして裏通りだけを走り抜けた。

 

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 本来ならば海沿いを走る県道を行くのが近道と思えたが、あの道の海からの距離は2キロ前後と近い。津波をかぶって使い物にならないだろうと考え、S市からN市に南下する国道4号を避けながら路地裏を急いだ。この高架を越えれば沿岸部が見えてくるというところで、警察が道をふさいでいた。

 

 「この先は津波が再び押し寄せる危険があります」。木下は自宅が海沿いにあること、妻から息子の姿が見えないと言われたことを告げたが、警察官の対応は同じだった。あなたが二次被害を受ける恐れが高い、奥さんから電話があったのならば、近くの避難所にいるということだから、そちらに行くように、とのことだった。

 

 不承不承、避難所に指定されている小学校へと車を向けると、そこはそこで戦場と化していた。脱ぎ散らかされた靴。家族や知り合いごとに集まって体温で暖を取る住民。腹が空いたと泣き叫ぶ幼児。ディズニーランドかと見間違うほど長い行列ができた女子トイレ。ほとんどが顔見知りという人の波を縫って歩き、木下は妻の真智子を探したが、見当たらない。再び焦りが募る。もしや、検問をすり抜けて寺に戻ったのか――。嫌な想像が頭をよぎった時、檀信徒の一人が声を掛けてくれた。真智子は避難所に入りきれず、駐車場に止めた車内にいるという。

 

 全速力で駐車場に走る。こんな時、僧侶の正装の一つ、雪駄はもどかしい。折からの寒さもあって足先がかじかむ。ようやく真智子の愛車、マーチを見つけて乗り込むと、車内の暖かさが身に染みた。「ようやぐ見っけだど。避難所はえれえ混み具合だなや」。軽口をたたいたが、真智子は放心状態だった。

 

 「なじょすた?」。肩を揺すると、ぼそぼそとしゃべり始めた。自分が俊大を殺したようなものだ、地震後に後片付けをしていて気が回らなかった。最後に見た時はいつもと同じく、寺の敷地の一角にある池でザリガニをつついて遊んでいた。頑丈で安心だと思って避難してきた檀家の相手をしていたのも悪かった。そのうちにN市役所の広報車が回ってきて、津波が来るから避難所に向かうように伝えてきた。高齢の檀信徒をマーチに乗せて送迎し、戻ろうとしたところに津波が来た――。要約すると、そんなところのようだった。

 

 海にほど近い土地にある道応寺。高さ数メートルもの津波が襲来したならば、そこにいた人間は助からないだろう。わずか5歳の子どもならば、なおさらだ。決して口には出さなかったものの、道々、そんな悪い想像を巡らしてきた木下からすれば、まさに最悪のシナリオ通りだった。

 

 悪い話はさらに続く。俊大だけでなく、父親と母親の姿も見えないのだという。「私、私、自分だけ…」。後は嗚咽になって聞き取れなかったが、木下が来るまでの間、自分を責め抜いたことはよく分かった。肩を抱くことしかできない自分がもどかしく、早く夜が明けて自宅の様子を見に行けるようにならないものかと身をよじらせた。

 

 自宅が大津波に襲われ、一粒種と両親の行方が分からない――。木下と真智子は悪い想像だけを膨らませ、そのまま一睡もできずに車内で夜を明かした。

 

 しかし、待ち望んだ日の光は、想像以上にむごたらしい光景を二人にさらした。

 

 寺が、なかった。

 

(続)

 

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(47)山あいでの被災~木下俊道の落慶法要

 

 2011年3月11日、木下はS市にある真智子の実家、貞観寺に出向いていた。東北最大の都市、S市にあるとはいえ、山間部の貞観寺は檀家数も少なく、ために僧侶の出番も少ない。普段ならば住職である真智子の父一人で事足りるのだが、春彼岸を控えたこの時期に法事が集中したとかで、木下にSOSが発せられた。

 

 こんな時、宗派が同じ寺同士が縁戚関係にあるのは本当に助かる。義父はそう言って木下の肩をたたくと、クラウンを駆って法要が営まれるお宅へと走り去った。「坊主って、どうしてクラウンが好きなんだろうな」。木下はそう独りごちて義父を見送ると、寺に来る別口の法事客を待った。

 

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 3月に入ったとはいえ、まだまだ寒い日が続いていた。この日も気温は10度に届かず、本堂にいた木下が足裏に貼るタイプのホッカイロを足袋の中に入れようとした時だった。創建400年だという貞観寺が崩れ落ちるのではないかと思うほどの揺れが襲ってきた。後にマグニチュード9だったと判明した大地震だった。

 

 「大きいっ」。木下は叫ぶや否や、ご本尊から離れて庫裏の方へと避難した。寺の本堂はたいてい柱が太く、頑丈に造られているものだが、大きい物で高さ3メートル前後になるご本尊は自重で支えられているだけで、釘やネジで留められているわけではない。たぶんに宗教上の理由からだったが、このため大きな地震の際には倒れることも多く、何年か前にもどこかの県で住職が下敷きになる騒ぎがあった。

 

 結局、ご本尊こそ倒れなかったものの、木魚やら香炉などが台から落ちて灰が飛び散り、堂内はひどい有り様となった。法事どころではなくなり、15時の約束だからと律儀に訪れた法事客に詫び、義父が帰るまで掃除をして待つことにした。貞観寺のある山あいの地区は揺れによる家屋の損傷ぐらいで済んだこともあり、木下も「大きな地震だったな」という程度の感想しか持たなかった。

 

 「俊道君、いるがっ!」。そこに血相を変えた義父が飛び込んできた。もしや法事客を帰したこと聞きつけ、咎められるのかと構えたが、「そんなごど、どんでもいい」と一蹴された。義父が担当した法要も地震で流れたといい、クラウンを運転して帰っていると、カーラジオが変事を伝えていた。

 

 「県沿岸部に大津波警報が発令されました。高いところで数メートル級の津波が押し寄せる可能性があります。決して海辺には近づかず、海沿いにいる方は避難して下さい。警戒が必要な市町村は次の通りです。S市、I市、N市…」

 

 N市。確かにそう言ったという。木下が生まれ育った道応寺はN市沿岸部にある。いや、沿岸部どころか、漁港までは目と鼻の先だ。殺生に当たるからと木下自身は父親に禁じられていたものの、同級生たちが釣り糸を垂れていた岸壁までは歩いて5分も掛からない。

 

 慌てて袂から携帯電話を取り出す。震える指先でリダイヤルを呼び出し、真智子の番号を鳴らす。つながらない。災害後の常で混線しているようだ。何度も何度も試みるが、無駄だった。焦りが募る。義父に肩をたたかれて我に返った。「俊道君、こっちはいいがら、戻れわ」。促されるまま愛車のムーブに飛び乗った。

 

 貞観寺からS市中心部へと至る国道48号はさほどでもなかったが、市中心部に入ると途端に渋滞がひどくなった。大地震の後ということもあるが、金曜日の午後4時すぎとしては日常の混み具合と言えた。

 

 辺りが徐々に暗くなってくる。カーラジオはさっきから、津波情報ばかりだが、なにぶん伝聞情報が多く実態がつかめない。記者も海沿いには近づけないのだろうか。上空からの映像があるようだったが、テレビをつけても運転中は画像が映らない。安全のための仕組みだと分かっていても、木下はいらだってステアリングを何度もたたいた。

 

 「S市W区の映像です。真っ黒い津波が、水田でしょうか、その上を覆っていく様子が映し出されています」。テレビの音声に不安がさらに膨らむ。W区と言っても広い。映っている場所が南側ならば、川を挟んで対岸が木下の住む地区になる。

 

 「えーい!」。いらだちが最高潮に達し、木下は車内で大声を張り上げた。若いころからの修行の日々など、危機的状況に直面すれば何の意味も成さないことがよく分かる。正直なところ、家族が無事でさえあれば、その他の物事はすべてどうでも良いとさえ思えた。

 

 突如、木下の携帯電話が鳴動した。見ると、真智子からだった。ホッとして全身から力が抜ける。渋滞で先ほどから全く車が動かないことを幸いに、電話に出た。「いやあ、良かった。心配で何度も電話したんだが、混線しててつながらなかった。こっちは地震で法事にならなくて、切り上げてきたわ」。木下が切りだすと、真智子は取り乱した様子で嗚咽交じりに漏らした。

 

 「俊(とし)さん、俊大がいないの」

 

 頭から冷や水でも掛けられたように、全身がスッと冷える感じがした。

 

(続)

 

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(46)道応寺の子~木下俊道の落慶法要

 

 木下俊道は毎朝起きると、台所に立ってコップに水をくむ。自分で飲むのではなく、そのまま自宅の外へと向かう。家の前が墓地になっており、「木下家代々の墓」と刻まれた墓にコップを供える。もう1年以上も続けているルーティンだ。

 

 コップはプラスチック製で、白地に戦隊モノのプリント化粧が施されている。数年前に子どもたちの間で流行した「列車戦隊トッキュウジャー」。木下の長男俊大(としひろ)も大好きだった子ども番組だ。「俊大 享年6歳」。墓碑銘にはその息子の名も彫られている。8年前、幼くして旅立った。

 

 「今日は晴れるみたいだから、のどが渇くかもな。いっぱい飲みなさい」。墓に手を合わせ、胸の内で長男と会話する。むろん、返事はないが、木下にとっては大切な語らいの時間だった。

 

 木下は1970年、N市沿岸部に建つ道応寺の住職夫妻の子として生まれた。県庁所在地のS市の南側に位置する元々は漁村集落で、集落のほぼ全員が檀信徒だった。何百年も前から建っている厳めしい寺院で起居し、多くの住民から住職の子として接されれば、自然と自分も僧侶になるのだと思い込むものだ。俊道という名前からして、音読みにすれば僧名にもなるようにと付けられたものだったし、子どものころからずっと坊主頭で過ごしてきた。そのまま仏教系の高校、大学と進んで僧侶の資格を取った。

 

 父の方針もあって、卒業後しばらくは縁のある北陸の寺や、N市より南にあるK市の寺で修行した。6年して28歳になった時、地元に戻った。

 

 大学時代の修業や他寺での生活に比べれば気楽な毎日だったが、何しろ人間関係が濃密な田舎町のことだ。たまには外で酒を飲むこともあるし、書店でわいせつな本を買うこともあるが、そのたびに両親に筒抜けになることが嫌で仕方なかった。「偉そうに説教を垂れて布施までもらう坊主なんだから、仕方ねんだ」。おそらく同じ道をたどったであろう父親の言うことは分からないでもなかったが、若い木下は奔放に過ごす中学までの同級生たちがうらやましくて堪らなかった。

 

 そんな木下の鬱屈した日々を変えたのが妻の真智子だった。昔ならいざ知らず、僧侶は嫁の来てが少ない。集落中から注目され、始終、住民が寄り集まる場所なのだから、自由を愛する若者には敬遠されるものだ。とはいえ、寺の側も手をこまねいていては存続が危ぶまれる。いきおい、宗派の同じ寺院の住職同士が会合のついでに額を寄せ合い、子女を娶せるようなことがよくあった。木下もそのクチで、S市の山手にある寺の娘と一緒になった。

 

 若いころから坊主頭で、中学を出てすぐに修行の日々を送ってきた木下にとって、真智子との新婚生活は楽しかった。それなりに頻繁に法事があるので、なかなか遠出はできないものの、自分のそばに女性がいるだけで心が浮き立った。若い男が求めることと言えば一つしかなく、真智子はほどなくしてトイレに駆け込むようになる。身籠ったのが男子と分かると、将来への期待を込め、音読みで「しゅんだい」と読める俊大と名付けた。

 

 俊大が生まれて5年、木下は幸せの絶頂にあったと言っていい。三十代も後半に差し掛かり、見た目の円熟味も増したこともあって僧侶としての信頼も増してきた。高齢になった父親には楽隠居してもらい、そろそろ自分が住職を継ごうかとも考えていた。そのため、法事もほとんどは木下が手掛けるようになっていたが、時間が空けば真智子や俊大と出掛け、我が子の笑顔に安らぎを得た。順風満帆とはこのことかと、木下は仕事に家庭にと充実した暮らしを送っていた。

 

 あの大津波の日の後、俊大が遺体で見つかるまでは。

 

(続)

 

 

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(45)幕間~金井七海の法廷闘争

 

 ようこそおいでくださいました、私が理事長の金井七海です。応接室のような場所は特にないので、すいませんが職員室でも構いませんか?

 

 それで東北新聞さん、今日は福田市長のご紹介ということでしたが、どんなことをお聞きになりたくて? 私、理事長なんて肩書ですけど、業界事情や事務手続きなんかは疎くって。あら、訴訟のことだったんですか。ホント、よくよく市長は変わっている人だわ。あはは。私、市長のこと訴えていたんですよ。よく、訴訟のことを聞きたいって人をつなぎますよねえ。笑っちゃう。

 

 でも次長さん、記者さんの方がずっと訴訟には詳しいでしょう。私なんて、代理人の米田弁護士にお願いしていただけで、法律関係は分からないもの。え? どうして和解に応じたか、ですか。なるほど。結局、私たち夫婦だけでしたもんね、和解したの。先日、訴訟が結審したという記事は拝見したんですけど。どっちが勝つのかしら。

 

 まあまあ、すいません。取材なんて初めてですから、話があっちこっち行っちゃって。判決がどうなるかなんて分かりませんよねえ。はははは。いや、もうホント、おかしい。前の理事長を訴えた私が、理事長としてうみどり福祉会の中にいて、その訴訟について取材受けているんだもの。なんか、おかしくって。

 

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 はあ。でも、この福祉会の建物って、私たちにとって希望の象徴だったんですよ。次長さん、障害者の親が普段、何を考えているか分かりますか? 徹頭徹尾、子どもたちの将来のことなんです。自分たち親が死んだ後、どうやって食べていくのか。住むところはあるのか。老いたら誰が面倒を見てくれるのかって、そればっかり。だって、普通の人ならば自分で何とかできるとしても、あの子たちは稼ぎがないんだから。

 

 そんな親たちを、何とかなるかもしれないって気持ちにさせてくれたのがここ、福祉会なんです。農業なんてやったことなかった琴美ーー私の娘ですが、その琴美が楽しそうにホウレンソウを収穫するんです。それを袋詰めして、段ボール箱に入れて、スーパーまで運んで。1か月にたった3万7500円ですけれど、工賃としてお給料をいただいて、とっても喜んでいました。

 

 あの子、福祉会に入るまではそれほど笑わない子だったんです。小さいころ、私と夫の不注意が元で障害を負ってしまって。顔立ちはかわいらしい方だと思うんですが、感情を表に出すほどの出来事に出会ってこなかったんでしょうね。それが、働く場所を与えられ、少ないながらも報酬を得た。普通の人と同じように扱ってもらえたことが、何にも代えがたい喜びだったんです。

 

 その笑顔を後押しした人もいました。福田さんて、ご存じのようにとても忙しい方ですから、ここの実務はお母さんの君代さんが担っていました。ここで喜びを体感するまで、ほかの子たちもやっぱり表情に乏しかったんですが、君代さんはいつも、「笑って、笑って」って励ましていたんです。福田さんの長男の隼人君にも障害があって、彼を成人させるまで育てた人でもあるので、私たち保護者にもとても良くしてくれて。思い悩んだ時なんかに、よく愚痴を聞いてもらいました。

 

 一言で言えば、君代さんは羅針盤みたいな人だったんです。障害者の保護者としての先輩で、通所者みんなのお母さん。その人が必死で生き残ろうともがいた証が、第三準備書面なんです。お読みになりました? 

 

 そりゃあ、琴美が亡くなった当初は福祉会を恨みました。どうして内陸部にいたのに、海手へ戻ったのって。大津波警報が出ていたのは分かっていたでしょうって。でも、それって、生き残った私たちだから言えることなんですよね。あの大津波以前に、津波って言われてどれだけ本気で備えた人がいたでしょう。せいぜい、漁港の岸壁の海水が何十センチか上がるくらいだって、高をくくっていましたよね。震災後の考え方を、あの時に当てはめるのは酷だと思うんです。それに、何よりも、必死で生きようとした君代さんへの冒涜のような気がしちゃって。私、君代さんの最期、知らなかったから。

 

 ねえ、次長さん。今、お座りになっている椅子、通所者の子たちも座るんですよ。昔からそう。障害児って、ふとした拍子に不安にかられちゃって、暴れることもあるから。君代さんがこの椅子に座らせて、子どもたちにこんこんと語って聞かせるんです。「大丈夫、大丈夫。笑って、笑って」って、こう、ぎゅっと抱きしめながら。落ち着くまでそうしてあげるんです。 

 

 実は私もしてもらったことがあるんです。

 

 さっき、不注意で障害を負わせたって言いましたけど、琴美は内臓逆位で生まれてきました。ご存じですか? 臓器がすべて逆側に付いているんです。それを手術した時に執刀医に伝え忘れて…。

 

 私、ずっと自分を呪ってきました。先天的なものならば、まだ諦めの付きようもあります。でも、あの子を、琴美をそうさせたのは他でもない、私なんです。謝ったって謝りきれない、とんでもない過ちを犯したって。琴美がここに来て、初めてのお給料もらって喜んでいるのに、それを見て私、泣いてしまって。もう、取り乱すほどにね。琴美が笑顔になったのは良かったけれど、本当はもっと別の世界がこの子にはあったのにって、普通に学校に行って、恋愛して、就職して、働いて、お母さんになってって、できたのに私がーー、って思って嗚咽が止まらなくなって。

 

 そうしたら、ちょうどその椅子に座っていた私を後ろからぎゅっと抱きしめてくれたんです。君代さん。「大丈夫、大丈夫。笑って、笑って」って。背中、暖かいって思ったのを覚えています。

 

 琴美も、君代さんもいなくなっちゃったけれど、今度は私の番だと思うんです。これからも障害児とその保護者がいっぱい、いっぱい悲しむことがあると思うんですよね。その時、誰かが後ろから抱きしめてあげないと。君代さんの代わりに、「大丈夫、笑って」って言ってあげないと。

 

 私ももう、五十路です。それほど先は長くないけれど、最後の最後まで精いっぱい頑張るつもりです。そして、いつか琴美と君代さんのところに行く日が来たら、私、頑張ったよって。いっぱい、いっぱい抱きしめたからって。大丈夫、笑って、ってたくさん伝えたよって、報告したいんです。そうしないと、琴美に顔向けできないもの。私が生き残って、君代さんが亡くなった意味がないもの。

 

(金井七海・完)

 

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(44)笑って、笑って~金井七海の法廷闘争

 

 「ご足労ありがとうございます。本来はこちらから出向くべきなんですけど、まだ何かとバタバタしていまして。申し訳ない」

 

 I市役所5階にある市長応接室。遠く太平洋まで見渡せる眺望の良い部屋で、福田禎一が忠司と七海を待っていた。どこか姉妹都市の民芸品やら、表敬訪問した芸能人だかの色紙が置かれ、いかにも市のトップの応接室といったしつらえだ。

 

 福田は結局、この部屋の主だった柿沼源次郎を大差で破り、市長選で初当選を果たしていた。それから2カ月近くたつが、さすが市長ともなると忙しいらしい。建設会社のトップなのだから建設部門は問題ないとしても、市役所には他に農林水産、保健福祉、産業経済などさまざまな分野を所管する部署がある。そちらの方面は一から覚えなければならないだろう。

 

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 天気やら何やら通り一遍の時候のあいさつが済むと、早速、福田が本題を切り出してきた。「訴訟では身を引いていただき、ありがとうございました。今日はそのことに関連して、弁護士を入れずに忌憚のない話をしたくてお呼びした次第です」。そう、忠司と七海は、S地裁に提起した損害賠償請求訴訟を降りていた。

 

 二人が提起したのは、障害者就労支援施設「うみどり福祉会」の通所者のうち、犠牲者11人の遺族が起こした集団訴訟だ。法律上は「訴訟分離」と言って、他10遺族分と審理を分けた上で、金井夫婦だけが福祉会側と和解する形を取った。代理人の米田には、集団訴訟という性格上、1遺族だけ和解してしまうと困ると言われたが、実質的な運営者だった福田の母君代の死に様を知った以上、福祉会側をさらに追及する気持ちは失せてしまっていた。「大変お世話になりました」。親身になってくれた米田には、そう言って頭を下げるしかなかった。

 

 S地裁の審尋室で和解してからいくらも経たないうちに、福田の会社の秘書から連絡が入った。個人的なお話をしたいのだが、ことは市の方向性とも関わるから、市役所においでいただきたいということだった。和解したとはいっても、訴訟の原告と被告がサシで会うことは極めて稀だ。直前まで裁判所で争うほどこじれた関係だったのだから、それが普通だろう。七海は不審がったが、市長応接室という場所に一度行ってみたいと忠司が言いだし、結局応じることにした。忠司のこうしたミーハーぶりは困ったものだが、石橋を叩いて渡らないタイプの七海にしてみれば、「迷ったらGO」が口癖で深く考えない忠司は割れ鍋に綴じ蓋というやつなのだろうと思う。

 

 芸能人の色紙にチラチラと視線を泳がせる忠司を尻目に、七海が詳しい用向きを訪ねると、福田は意外なことを語り始めた。震災後に閉鎖したままとなっている、うみどり福祉会を再開させたい。ついては、忠司の了解の下ではあるが、七海に運営をお願いしたい。君代がいなくなってしまった今、障害者と接した経験のある人間が必要で、女性の通所者もあるだろうから、女性が担うのがベストだと考える。行政とのパイプや実務は福田建設から人を派遣するので、通所者対応がメーンだ――。福田の提案は概ね、そういった趣旨だった。

 

 「私が? どうして私なんですか?」。唐突な指名に七海は戸惑い、素っ頓狂な声を上げてしまった。福田は右手を挙げてこれを制し、説明を続けた。

 

 「I市は県庁所在地のS市に近いとはいえ、元が田舎集落の合併市だから血のつながりの濃い地域で、どうしても障害者が一定数、生まれてきます。自分も息子の隼人がそうでした。だから、どうしてもこの分野を充実させたいのですが、行政がすべて担うのは難しい。どこか一元的にやれる団体に委託し、障害者が安心して生きていける仕組みを作りたいのですが、もちろん誰でもいいわけではありません」

 

 福田はそう前置きした上で、胸の内を明かした。「市長としてではなく、福田禎一としてしゃべります」

 

 「分がってっこどもあんだべげっと、俺は母子家庭で育ったんだ。母ちゃんに認められでえ、禎一、よぐやった、って言われてぐて頑張ってきたんだ。んだがら、母ちゃんが心血注いだ福祉会ば訴えられだら引げねがった。んだげっと、このI市の障害者福祉の現実を一番分がってんのも、あんだだぢ原告さんだぢなんだよな。俺と同じぐ、何十年も苦労してきたんだおん。息子や娘さ守るためにな。したっけや、こないだの準備書面ば出した後、あんだら夫婦だげ降りるって言うべ? うぢの弁護士さ聞いだっけや、母ちゃんの死に際を知って、とっても責めらんねって考えだがらって。死んじまったがら分がんねんだげっと、母ちゃん、震災前までホント一生懸命やってけで、そんでも自分がこごで死んじまったら、みんなば守らんねって思って、あいなぐもがいだんだど思うんだ。それがちっとでも分がってくれる人さ、頼みでなって思ってやあ」

 

 市長だ、社長だという仮面を外した人間福田禎一の吐露につまされ、七海は顔を覆った。それを見た福田は七海の肩をたたき、こう励ました。

 

 「七海ちゃん、笑顔、笑顔!」

 

 七海の一人娘の琴美に、君代がよく語り掛けていた言葉だった。在りし日の君代がしのばれ、七海は突っ伏して応接テーブルを濡らした。

 

(続)

 

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(43)被告の街頭演説~金井七海の法廷闘争

 

 大音量で名前を連呼するだけの選挙カー。顔も見たことがないのに「よろしくお願いします」と言い募る厚かましさ。七海は選挙というものが総じて嫌いだった。

 

 そんな七海が最近、足を止める候補者がいる。いや、足を止めるどころか、聴衆の中に分け入っていって、前列の方で訴えに耳を傾ける。時には日に二度もそうすることがあった。

 

 マイクを握るのは、I市長選に出馬した福田禎一。うみどり福祉会の理事長で、県内トップクラスの建設会社、福田建設の社長だ。そして、七海が提起した損害賠償請求訴訟の被告でもある。どんなことを訴えているのかーー。いつもならば聞きもしない政見に耳を傾けるのは、ひとえに訴訟に対する態度を決めるためだった。

 

 市長選が始まって3日がたつが、七海は告示日の1カ月ほど前に開かれた第三回口頭弁論に強く気持ちを揺さぶられた。福田の母で、うみどり福祉会の実質的運営者、君代の死に際を記した準備書面が原因だ。「君代さんは死んだ。私は生き残った。どっちも必死に生きようとしたのに」。自分は生かされた命なのだと考えると、福祉会側への怒りより、このまま裁判を続けることへの疑問が勝るようになった。

 

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 「みなさん、ご声援ありがとうございます。福田禎一でございます」。ぼんやり訴訟のことを考えていたら、応援弁士の何とかという市議会議員の話が終わり、候補者本人の街頭演説が始まった。演説自体はもう何度も聞いたが、福田はどうしてか、これまでのところ東日本大震災に関する考えを語らなかった。もちろん、東北新聞の質問に答える形で紙上では話しているのだが、七海は福田の口から直に聞きたかった。

 

 「選挙戦も早いもので、もう折り返しです。みなさん、今日は何の日かご存じですか? 正確には昨日です。11日。月命日でした。忘れていましたか? いや、そういう方も多いでしょう。あれから何年も過ぎました。でもね、少なくとも私たちは忘れちゃならないと思うんです。だから、月命日が過ぎるまで、震災について拡声器でがなり立てることは控えていました。選挙カーは被災地も、墓の前も通ります。月命日を控える中、そこで声を張り上げるのは、どうしても嫌でした」

 

 突然の告白だった。津波で被災したI市において、復旧・復興施策は避けて通れない課題だ。言わば「一丁目一番地」の話を、選挙戦がスタートしているのに封印していたというのか。

 

 福田は続ける。

 

 「正直なところを申し上げます。市長の椅子とか、バッジとか、どうでもいいです。活躍を見せたかった母ちゃんも、もういませんし、生きている限り守り抜くと誓った一人息子もあの世に旅立ちました。でも、あれほど多くの犠牲を払ったのに、それが忘れ去られ、ただの昔話になってしまうのだけはどうしても嫌でした。建設会社の社長なんてやっていますと、工事の発注箇所やなんやで、お役所の考えがだいたい分かってきます。県やI市は別として、少なくとも国はもう、忘れようとしてますよ。『もういいでしょ』と言わんばかりです。そう言わせないために、身内が犠牲になった物言う被災者として、国と対峙したいのです」

 

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 元よりかなり大柄の偉丈夫が、本音をせきららに語る様子は聴衆を否が応でも引き付けた。中卒の15歳で身を興した立志伝中の人物だけに、福田家の悲劇は市民みんなの知るところだったことも大きい。確かに、この男ならやってくれるのではないかーー。その場の空気は福田に支配され、選挙の趨勢は実質的に決まったようなものだった。

 

 最後に福田は、こう付け足して演説を終えた。七海は、発言があたかも自分に向けられたような気がして、胸の前で両手を握りしめ、うなだれた。

 

 「皆さん、ご存じでしょうが、私は今、訴えられています。うみどり福祉会の理事長なのに、通所者の安全配慮を怠って、津波に遭遇させ、死なせた、と。弁護士には訴訟に影響するから余計なことを言うなって言われましたが、これだけは言いたい。通所者が乗っていたバスには私の息子もいた。どこの世界に、息子の安全に気を配らない親がいますか! あの時、ここにいるみんな、その瞬間をどうやって生きるかって手を助け合ったでしょう。みんな必死に生き抜いた。なのに、時が過ぎれば、あいつが悪い、こいつのせいだって。本当の敵は、もう昔のことでしょって忘れようとしている世間なのに。もう二度と、仲間が死なない街を造ることが大事なのに。誰かを非難することで留飲を下げている場合じゃないと思いませんか」

 

(続)

 

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(42)運命を分かつ物~金井七海の法廷闘争

 

 「君代さんを最後に見たのは、3月11日の午後4時ごろだったと思います。私は自宅が津波で流されました。一口に流されると言いますが、実態は寄せ波で家屋が基礎から浮き上がり、直後の引き波で海へと持っていかれるのです。あの時は無我夢中で二階に逃げ、そのまま家ごと海へと引っ張られました。その時、二階の窓から福田さんの家が見えて、一階の屋根に上がった君代さんの姿が目に入ったのです」

 

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 七海は、弁護士の米田から渡された準備書面を読み、そこに書かれていた切迫した状況に引き込まれた。提訴から半年、第3回口頭弁論を間近に控え、うみどり福祉会と福田から送られてきた準備書面。福祉会側の代理人弁護士が、福祉会に近い場所に住んでいたI市の被災者から当時の状況を聞き取り、書面化したという。

 

 通常、民事裁判は法廷内で必要以上にしゃべることはない。七海のような素人は、どうしてもドラマのように弁護士らが舌鋒鋭く追及する場面が思い浮かぶが、それは刑事裁判で、しかも都合よく脚色されたものだ。民事は原告、被告の双方か一方が毎回、口頭弁論の1~2週間前に準備書面を出し合い、内容を裏付ける文書なりを証拠として提出する。今回は、被告である福祉会側が被災者から聞き取った当時の君代の被災状況を出してきたというわけだ。実際の法廷は、代理人がその準備書面を「陳述します」と告げるだけで、内容をその場でしゃべったことになる。

 

 被災者の名前は真田とあった。震災前は福祉会の北側に自宅があり、津波で流されたものの、奇跡的に家屋が岩や木に堰き止められ、一命を取り留めた。その際、自宅二階の窓から見た光景を語ったものだった。

 

 「君代さんは一階の屋根に上った上で、雨どいを伝ってさらに上に逃げようとしていたようでした。建設会社の社長さんの自宅だけあって、福田さんのところは結局、津波にもびくともしなかったんですが、海が街中に突然出現したような状態でしたから、パニックになったのかもしれません。できるだけ高いところに、と考えたのでしょう」

 

 七海も当時のことを思い出さずにはいられなかった。自宅は流失を免れたとはいえ、床下まで波が来た。激しい揺れに襲われ、後片付けをしていたらいつの間にか津波が押し寄せてきていた。内陸へ、内陸へと必死に走って逃げ、高速道路ののり面を駆け上って助かったのだった。

 

 「自分も流されているのに変な話なんですが、スロー再生中のテレビ画面でも見ているようで、あの時って他の家にいた人の表情や動きまではっきり見分けられたのです。君代さんは雨どいまでもう少しだったんです。しかし、もう手が届くというところで急に、顔がゆがみました。靴をはいていなかったので、何かを踏みつけてしまったのだと思います。ずっと壁に添えていた手を離し、痛む足に持っていった瞬間、屋根の上を転がるようにして押し寄せる津波の中に落ちていきました」

 

 七海の自宅と福祉会は2キロほど離れている。自分が命からがら遁走している時、君代も生き抜くために戦っていたのだと思うと、目頭が熱くなった。同じ時間、同じような場所で巨大災害に巻き込まれた者同士にしか分かり得ない共感。一方は犠牲になり、一方は生き残ったが、それはほんの僅かな運の差でしかない。あの時、七海は地震で落ちて割れた食器類の掃除中で、けがをしないようにスニーカーを履いていたことが速やかな避難につながったと思っている。

 

 「原告らは、訴外君代が大津波警報の発令を知りながら、原告金井忠司、七海夫妻の長女琴美らにバスで福祉会へ戻るよう指示したとするが、その君代でさえ、福祉会北隣にある自宅の屋根の上に逃れたものの、そのまま死亡した。警報が出ていたとしても、家を呑み込むほどの巨大津波の襲来を予見できなかったことは明らかだ。仮に予見できていたならば、その場に留まるという選択をしたはずがなく、想定をはるかに越える自然の脅威まで予見して対応すべきだったとする原告の指摘は酷に過ぎる」。準備書面はそう続き、福祉会側への責任論を回避していた。

 

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 君代はあの時、必死で生きようとしていた。それは、孫の隼人をこれからも守らなければという一心からだったろうが、ほぼ一人で福祉会を切り盛りしていたことからすれば、それは琴美を含めた通所者全員に通じることでもあった。

 

 「琴美ちゃん、笑顔、笑顔」。いつも、そう言って琴美の気持ちを盛り立てていた君代。娘の将来を悲観して時折、愚痴をこぼしていた七海の肩をポンとたたき、笑顔を見せてくれる人でもあった。

 

 「誰かが悪いから琴美が死んだ、そういうものじゃないのかもしれない。みんなあの時は必死だったんだから」。七海は君代の余りに壮絶な死に様に触れ、怒りが急速にしぼんでいくのを感じた。

 

(続)

 

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(41)証拠保全手続き~金井七海の法廷闘争

 

 遺族全員に共通する疑念は、うみどり福祉会のバスがなぜ、大津波警報が発令されている最中に海沿いにある福祉会へと引き返したのか、だった。乗っていた障害者たちは判断力に乏しいとしても、運転手は健常者である福祉会職員だ。海に向かえば津波に呑み込まれる恐れがあるとは考えなかったのか。七海はこの点がずっと不思議だった。

 

 「おそらく」と前置きをしながら、米田は福祉会の認識の甘さが根底にあるのだろうと喝破した。さまざまな分野に特化した組織、団体にはよくあることだというが、障害者福祉には明るくても防災には疎かった。それが真相なのだろう、と。

 

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 そうだと仮定すると、人命を預かる障碍者就労支援施設としてはお粗末極まりなく、日々の業務を漫然と行う余り万が一への意識が欠落していたことを追及できるという。「裁判所に証拠保全を請求しましょうね」。米田がそう提案した。

 

 七海も忠司も門外漢のため頷くしかなかったが、訴訟に至るほどのトラブルでは一般的に、相手方は証拠になるような文書の提供に応じてくれない。米田が解説してくれたところでは、たとえば医療過誤訴訟を提起するとして、どういう病気で、どういう手術が選択され、その結果どうして亡くなることになったのかを明らかにするためカルテを証拠提出したいが、病院側は原告にカルテを渡すわけがない。そこで、裁判所を介してカルテを押さえてしまうのが証拠保全という手続きなのだそうだ。

 

 さすが弁護士というところだろうか。福祉会理事長の福田はこのところ、遺族たちとの交渉に応じようとさえしない。まさに「病院」だ。でも、そこで裁判所に申し立てることなど考えつかなかった。そういう制度があること自体も知らなかった。

 

 話し合いの末、証拠保全請求の対象は福祉会の定款と災害マニュアル、避難訓練の実施状況とそれに関連する福祉会内の議事録にすることにした。自己判断できない障害者を災害時に守るため、福祉会がどういう取り決めをしていたのかをつまびらかにすることで、安全配慮義務を怠ったと主張することになった。

 

 3カ月後、裁判官と裁判所事務官が福祉会――建屋そのものは流失せずに残ったが、業務は行っていない――を訪問し、応対した福田に証拠保全を行う旨を告げた。福祉会の資料は福田が社長を務める福田建設内に移してあるとのことで、証拠の回収はそちらで行われた。予想に反して福田は何ら抗わず、文書の提出に応じた。

 

 後に米田が解説してくれたが、証拠保全に強制力はないものの、拒否すれば裁判官の心証は悪くなることが一般的だ。福田建設ほどの大企業には顧問弁護士が就いており、そちらから知恵を付けられたのだろいうということだった。「取り決めはあり、安全には配慮していたが、あれほどの巨大津波が来ると予見することはできなかった」と切り返すつもりなのだろう、という。

 

 こうして証拠保全手続きが終わり、七海たちは訴訟に突入していくこととなった。

 

 疑念に端を発した、福田への怒りと憎しみ。その果てに、七海は意外な事実を知ることになる。

 

(続)

 

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(40)銀縁眼鏡の同志~金井七海の法廷闘争

 銀縁眼鏡に紺色のスーツ、えんじ色のネクタイを締めた男は米田、と名乗った。

 S地裁に近いマンションの一室。「米田法律事務所」と書かれた看板がなければ、一般の賃貸住宅と言われても分からない。いや、その看板だって、表札のステンレスケースに手書きで札を差し入れただけで、米田のスーツのラペルに付けられたバッジを見なければ、弁護士かどうか疑わしいものだった。

 

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「ああ、バッジですか。一般の方には珍しいでしょうね。本当は金色なんですが、ベテランに見られたくて、若い時に表地を削ったんです。若い弁護士がよくやるんですよ。まあ、今は本当にベテランになっちゃったけど。年だけは」


笑わせようというつもりなのだろうが、笑えない。そもそも風体が銀行員のようだ。それも冴えない窓際系の。中年男性にありがちだが、スーツの襟元にふけがたまっていて、ネクタイは結び目付近の色だけ皮脂でくすんでいる。七海は次第に嫌悪感が募ってきた。


七海の気持ちを推し量ったのか、夫の忠司が七海の肩をたたきながら、米田に質問を重ねた。訴訟の代理人を依頼したいが、料金はどのくらいになるものなのか。口頭弁論はどのくらいの頻度で開かれ、判決はいつごろ出るものなのか。法律に疎い七海も知りたいところだった。


「あー、結論から言いますとね、料金は要りません。ああ、それだと語弊があるな。そう、実費だけいただきます。これは他の方にもそうお話しています。法廷はーー、そうですね、月に1回ずつ開かれて、結審までだいたい1年半かな。判決は時期にもよりますが、その半年以内というところでしょう」


スケジュールの話も詳しく聞きたかったが、七海は料金の話に耳を疑った。報酬はいらない、という意味だろうか。弁護士というと法外な報酬を取る専門職というイメージがあったのだが。そこは忠司も同様だったようで、掘り下げた。


「そのイメージは分かります。一般的な事件なら着手金が10万~30万円、和解なり判決の際に成功報酬として和解金や賠償金の13~16%というのが相場です」。米田はS弁護士会内のおおまかな基準を教えてくれた上で、今回はその規定を取り払い、印紙代などの訴訟費用とコピー代などの実費補填だけで構わないと語った。


米田は「震災でお家をなくされ、仮設住宅で暮らしてらっしゃる方もいるでしょう。もらえませんよ」と続けた。今回は、ほかに10組の遺族が加わる集団訴訟になる。七海らの自宅は流失しなかったが、中には家がきれいさっぱり流され、布基礎だけになった方もいる。さらに勤め先が被災で倒産し、職を失った方もいた。着手金に何十万円も払えないという事情はよく分かる。


ただ、では判決まで2年もの間、米田はどうやって糧を得るのか。遺族ごとに犠牲者の年齢や境遇、障害の程度が異なるため、今日のように1組ずつ呼び出され、訴状を起案するための聞き取りが行われていた。これ一つとっても、膨大な時間を取られるだろうに――。今度は七海が疑問をぶつけると、米田は本音を打ち明けてくれた。


「息子が一人、いたんです」


その長男が津波の犠牲になった。大学卒業を間近に控え、気の合う仲間たちと岩手の陸前高田市へと卒業旅行に出かけていた。七海らの場合と違って誰が悪い訳でもないが、同じような年頃の子どもを亡くした気持ちは痛いほど分かる。身を切られるようだというのはこのことかと、仕事に没頭することで忘れようとしてきた。東北新聞で七海らの話を知り、依頼があったら自分が引き受けると弁護士会に話を通していた。米田の表情は淡々としたものだったが、その口調は熱を帯びた。


「大学は法科でしてね。在学中は受かりませんでしたが、次こそ司法試験に合格して私の跡を継ぐんだと言ってくれた矢先でした。旅先でバスごと海に呑まれました。皆さんのケースを知った時、体に電流が走りましたよ。これは私の仕事だ、って」


もう、何日も自宅に帰っていないという。七海は、米田の見た目をさげすんだ自分を恥じた。

 

 この人は、同志だ――。


(続)

 

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