あの日を境に

巨大災害によって人生が一変した人々の群像劇

(46)道応寺の子~木下俊道の落慶法要

 

 木下俊道は毎朝起きると、台所に立ってコップに水をくむ。自分で飲むのではなく、そのまま自宅の外へと向かう。家の前が墓地になっており、「木下家代々の墓」と刻まれた墓にコップを供える。もう1年以上も続けているルーティンだ。

 

 コップはプラスチック製で、白地に戦隊モノのプリント化粧が施されている。数年前に子どもたちの間で流行した「列車戦隊トッキュウジャー」。木下の長男俊大(としひろ)も大好きだった子ども番組だ。「俊大 享年6歳」。墓碑銘にはその息子の名も彫られている。8年前、幼くして旅立った。

 

 「今日は晴れるみたいだから、のどが渇くかもな。いっぱい飲みなさい」。墓に手を合わせ、胸の内で長男と会話する。むろん、返事はないが、木下にとっては大切な語らいの時間だった。

 

 木下は1970年、N市沿岸部に建つ道応寺の住職夫妻の子として生まれた。県庁所在地のS市の南側に位置する元々は漁村集落で、集落のほぼ全員が檀信徒だった。何百年も前から建っている厳めしい寺院で起居し、多くの住民から住職の子として接されれば、自然と自分も僧侶になるのだと思い込むものだ。俊道という名前からして、音読みにすれば僧名にもなるようにと付けられたものだったし、子どものころからずっと坊主頭で過ごしてきた。そのまま仏教系の高校、大学と進んで僧侶の資格を取った。

 

 父の方針もあって、卒業後しばらくは縁のある北陸の寺や、N市より南にあるK市の寺で修行した。6年して28歳になった時、地元に戻った。

 

 大学時代の修業や他寺での生活に比べれば気楽な毎日だったが、何しろ人間関係が濃密な田舎町のことだ。たまには外で酒を飲むこともあるし、書店でわいせつな本を買うこともあるが、そのたびに両親に筒抜けになることが嫌で仕方なかった。「偉そうに説教を垂れて布施までもらう坊主なんだから、仕方ねんだ」。おそらく同じ道をたどったであろう父親の言うことは分からないでもなかったが、若い木下は奔放に過ごす中学までの同級生たちがうらやましくて堪らなかった。

 

 そんな木下の鬱屈した日々を変えたのが妻の真智子だった。昔ならいざ知らず、僧侶は嫁の来てが少ない。集落中から注目され、始終、住民が寄り集まる場所なのだから、自由を愛する若者には敬遠されるものだ。とはいえ、寺の側も手をこまねいていては存続が危ぶまれる。いきおい、宗派の同じ寺院の住職同士が会合のついでに額を寄せ合い、子女を娶せるようなことがよくあった。木下もそのクチで、S市の山手にある寺の娘と一緒になった。

 

 若いころから坊主頭で、中学を出てすぐに修行の日々を送ってきた木下にとって、真智子との新婚生活は楽しかった。それなりに頻繁に法事があるので、なかなか遠出はできないものの、自分のそばに女性がいるだけで心が浮き立った。若い男が求めることと言えば一つしかなく、真智子はほどなくしてトイレに駆け込むようになる。身籠ったのが男子と分かると、将来への期待を込め、音読みで「しゅんだい」と読める俊大と名付けた。

 

 俊大が生まれて5年、木下は幸せの絶頂にあったと言っていい。三十代も後半に差し掛かり、見た目の円熟味も増したこともあって僧侶としての信頼も増してきた。高齢になった父親には楽隠居してもらい、そろそろ自分が住職を継ごうかとも考えていた。そのため、法事もほとんどは木下が手掛けるようになっていたが、時間が空けば真智子や俊大と出掛け、我が子の笑顔に安らぎを得た。順風満帆とはこのことかと、木下は仕事に家庭にと充実した暮らしを送っていた。

 

 あの大津波の日の後、俊大が遺体で見つかるまでは。

 

(続)

 

 

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