あの日を境に

巨大災害によって人生が一変した人々の群像劇

(52)換地処分~木下俊道の落慶法要

 

 貞観寺の桜は、S市内でも名高い古木の一つだ。名所というほどではないにせよ、荘厳にして優美な観桜の地として知られる。まだ人気の少ない早朝、木下はあれから6度目の花を咲かせた枝を見やった。

 

 そのまま水の入ったコップを手に、墓地区画に足を運び、一つの墓の前に腰を下ろす。コップにはトッキュウジャーのプリント化粧が施されている。一人息子だった俊大の遺品だ。「桜、咲いたなあ。今年もきれいだど。見だが?」。墓に話しかけながら水を供える。妻の真智子の先祖が眠る墓に、俊大も交ぜてもらっている。あくまで仮に、なのだが。

 

 俊大同様、両親も津波の犠牲になったことで、木下は道応寺の住職となっていた。寺は流失したため、檀家の希望もあって建て直す腹は固めたが、まちづくりを先導するN市が迷走を重ねたこともあり、未だ再建ならなかった。ために、三人は地元で荼毘に付したものの墓は貞観寺に間借りする状態だった。

 

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 原因は「現地再建」というN市の方針にあった。

 

 津波に襲われた自治体はたいてい、市街地を海から離して再整備する施策を取っていた。東日本大震災は数百年に一度というレベルの津波だったので、それに合わせるのは不合理だとしても、海辺に居住地を造るのは論外という考え方だ。

 

 N市は唯一、その方針に異を唱えた。海に面した場所こそ居住を制限したが、数百メートル離れた場所に5メートルの盛り土をして居住区を整備し、旧来の住民に提供したいという。海に愛着が深い住民が多いとの理由からだったが、もちろん住民の中にも反対意見は根強く、市議会がまとまらず住民運動まで起きて混乱を極めた。

 

 結局、県の裁定もあってN市の方針が容れられたが、一連の流れにより他市町よりも大幅に復旧・復興が遅れることとなった。いきおい、道応寺の再建もずれ込み、檀家も他の土地に移り住んだり、この間に亡くなったりしていた。何より津波に洗われた場所にどれほど住民が戻るのか不透明で、笛吹けども踊らず、となることが懸念された。

 

 まちの精神的よりどころであり、檀家の墓を管理するのが寺だ。それなのに住民が根付くのかどうか分からず、墓も何基再建されるのか見通しが立たない。寄進もあるとはいえ、被災した檀信徒に無理は言えない。再建には膨大な借金が必要となる。本当に大丈夫なのかーー。不安、焦燥、檀家の願い、一人息子の墓の行方…。さまざまな感情がない交ぜになり、心が折れそうになる日が続いた。

 

 そんな木下を支えてくれたのが真智子だった。

 

 「もう、あたしたちに失う物なんて何もないじゃない。大丈夫、大丈夫。もう無理ってなったら二人して俊大に会いに行こ」。そう言って肩をたたいてくれた。

 

 確かに一度はすべてを失った身だ。これ以上のどん底など、ありはしない。なによりも自分は親として、早世した子どもの墓を、生きた証を残してやる必要がある。自らにそう言い聞かせ、6度目の春を迎えた。

 

 「換地処分のお知らせ」。その日も貞観寺でのおつとめを終え、居間に戻ると、N市からの封書が届いていた。もともとあった道応寺の土地の分だけ、新しい居住区の一角に換地される土地面積と場所が決まったという通知だった。

 

 これで俊大の墓が建てられる。「ぅしっ!」。木下は小さく声を上げ、拳を固めた。

 

 (続)

 

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