あの日を境に

巨大災害によって人生が一変した人々の群像劇

(36)誰かのために~氏家悠吾の奉職

 

 氏家の警察学校での生活も残り少なくなった9月11日の朝、学校のみならず、県警全体に激震が走った。この日は東日本大震災の月命日というだけでなく、半年ごとの節目として、3月11日に次いで関連報道が増える。そのうちの一つの記事が、4000人強いる警察官一人一人の心に一石を投じた。

 

 「未曽有の災害に混乱 指揮できず」「被災署長『自分が部下殺した』独白」

 

 東北新聞の朝刊社会面にセンセーショナルな大見出しが踊っていた。記事の主人公は県警の元警視、江藤義彦・元I警察署長。震災発生直後の回顧録仕立てになっており、大津波で署員6人が殉職したのは自らが適切な指示を怠ったからだと述べていた。津波警報が出ていて、沿岸部への警戒に出動した人員まで把握していたのに、次々と舞い込む被害状況への対応に追われて部下の命を顧みなかった、という趣旨だった。

 

 「なんだ、これは!」。校長や副校長、教官らが憤り、それぞれが手にした朝刊を机や床にたたきつけた。

 

 「警察一家」と揶揄されるほど縦横の関係性が強固な警察組織にあっては、たとえOBといえども古巣批判は許されない。というよりも、許さないと言うべきか。そのために退職後も階級に応じた第二の職場があてがわれ、現職時代に知り得た情報の保秘を徹底するよう縛られる。あの巨大災害に対しては、いかなる組織も無力だったにせよ、それを対外的に認めることは治安維持機関としての敗北を認めるようなものだった。

 

 ただ一人、氏家だけは教官らの憤慨を尻目に、さもありなんと考えていた。

 

 江藤は先日、被災当時の最前線の警察署長として学校に招かれ、災害時のリーダーシップの在り方について講演していった。氏家も金言を拝聴したが、江藤の発言はどこか現実味に乏しく、たとえて言えば、あの遺体安置所にいた沼田巡査部長のような真に迫る物言いとは言い難かった。

 

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 奥歯に物が挟まったかのような語り口が不思議で、氏家は講演後に近づいて縷々質問したものだが、涙目になって氏家の手を握るばかりで、有益な回答はなかった。自分も祖父母が犠牲になり、その遺体を清めてくれた警察官に感動してこの道を志した旨を告げると、「その気持ち、わしぇねで(忘れないで)けろな」と肩を掴まれたことが印象的だった。署長経験者の警視と言えば、何千人といる警察職員のうち年に十人ほどしかいない。その大幹部を今も苦しめる当時の最前線とはいかばかりだったか、考えずにいられなかった。

 

 その後、県警と江藤、東北新聞との間でどのようなやり取りがあったのか、下っ端の氏家には知る由もなかったが、講演の内容と正反対の、しかも古巣批判のインタビュー記事は、真実性を否が応でも高めた。物事は一方向から見ているだけでは分からない。後に刑事畑に進む氏家の記憶に、そのことが強く刻み込まれた。

 

 半月後、氏家は期せずしてI警察署に卒配された。新米が県内最大のS市に隣接する都市部の警察署に配属されるのは、将来を嘱望されている証拠と言っていい。五十音順で警察学校の入校式あいさつに指名され、惣一とカツを志望動機に挙げたことが報道機関の耳目を集めた結果とも言えた。「祖父母の犠牲胸に 僕、警察官になるよ」。若者の美談は県警の広報戦略にも叶うらしく、早速、どこかのテレビ局から新人奮闘記の密着取材要請が来ているという。

 

 客寄せパンダ扱いは好きではないが、ポジションを与えられなければ、誰か他人のために汗を流したあの時の沼田のように輝くことはできない。氏家は清濁併せ飲み、I警察署で警察官人生をスタートさせた。

 

 「前進」。署長室の前に掲げられた木製プレートの由来はまだ知らないが、氏家は自分を鼓舞する言葉と受け取った。「公務員さなれ」という惣一の教えが今、現実となった。

 

(続)

 

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