あの日を境に

巨大災害によって人生が一変した人々の群像劇

(26)やすらぎから苦行へ~江藤美智子の遍路道

 

 お遍路は新鮮だった。

 

 何事も形から入るタイプの美智子は、喜々として白衣や菅笠、金剛杖など一式を二人分買い求めていった。行程を考えてホテルなどの予約を取るのは夫の政彦の分担となり、慣れないインターネットを使って現地の地理を確かめ、歩く速さなどを考えて決めていった。そうした「しなければならない作業」があれば、現実を直視しないでいられた、と言い換えることもできた。

 

 結婚して3年で生まれた孝則。以来、二人は「夫婦」でありつつも、「お父さんとお母さん」だった。ある日突然、自慢の一人息子を失った。30年以上続けてきた日常を、今さら高校で同級生だった頃のように、二人きりに引き戻されても困惑しかなかった。時をほぼ同じくして、嫁の香織、孫の涼太までいなくなったことも、心の穴を大きくした。

 

 二人して、お遍路スタイルで遍路道を行く。東北の片田舎と言って差し支えないK市に生まれ育ち、高校を卒業してそのまま家業の木工所に入り、所帯を持った政彦と美智子。孝則が大学時代に住んだ東京より西は訪れたことさえなく、うどんやミカン、坂本龍馬が頭に浮かぶという程度の知識しかなかったことも、道行きを興味深くした。

 

 I市の住職にもらったパンフレットによると、お遍路には順打ちやら逆打ちなど、いろいろなやり方があるようだが、生来が生真面目な東北人気質がそうさせるのか、二人は一番札所からすべて徒歩で回り始めた。還暦過ぎの肉体は無理もきかないことから、複数回にわたって徐々に巡る「区切り打ち」とした。

 

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 最初のうちこそ、見知らぬ土地での巡礼の旅に心洗われたが、政彦は次第に美智子の言動が気にかかるようになっていった。

 

 あれは第24番札所の室戸山最御先寺だった。高知県に入って最初の霊場で、政彦の記憶通りなら、お遍路を始めて最初に海が間近に見えた札所だった。初めて見る室戸岬。その突端に砕け散る波頭。普段、内陸部のK市に住む政彦にとっては、まるで観光地のように映ったものだったが、美智子は違った。

 

 「白い波しぶきって津波を連想させるから、好きじゃない。海って何度見ても不気味よね。吸い込まれそうな気がするもの」

 

 仏像を拝んでもそうだった。信仰心とはまるで無縁の政彦でも、たおやかで慈愛に満ちた表情に落ち着きを得たものだったが、美智子は「地元のお寺さんで祈っていたら、何か変わっていたかしら」などと繰り返した。孝則の供養はもちろんだが、心の安寧を得るための旅だったはずが、何を見ても、何を聞いても、戻れるはずのない震災前に心が飛んでしまうようだった。

 

 「孝則の元へ行きたい」。美智子は、心のどこかで、そう思ってはいまいか。

 

 もう四半世紀以上前のことになる。

 

 政彦は、まだよちよち歩きの孝則を背負い、近所の雑貨屋に買い物に出掛けた。K市は南国の高知県と違って寒い時期が長い。毎年、山手から吹き降ろす風は身を切るようだったが、初めておぶった我が子のぬくもりが吹き飛ばしてくれた。帰宅すると孝則は背負われたまま寝入っており、政彦の首筋はよだれだらけになっていた。木工作業に使うタオルでよだれを拭い、口では美智子に「参った、参った」とこぼしたが、嫌悪感などあろうはずもなかった。背中はまだ、じんわりと温かかった。たかが買い物一つとっても、忘れられないほどの思い出がある。子を育てるとは、そういうことだろう。

 

 人間は思い出の中に生きるものだ。愛する肉親を失ったならば、なおさらだ。それでも、生きている以上は前に進まなければならない。たつきを得て、食らい、眠り、自らを生かさなければならない。後を追った方がどれだけ楽だろうと、眠れない夜もあったが、そうなれば誰が孝則の墓を守るのか。勇敢にも職に殉じ、若くして逝った息子の墓が雑草に覆われ、苔むすなど、それこそ耐えられない。自分たちもいずれ孝則の元に旅立つのだとしても、せめて、それまではーー。

 

 この夏、美智子が5度目の区切り打ちの相談を持ち掛けてきたが、政彦はクリスマス商戦への対応を理由に断った。木工所を切り盛りし、自分たちも食べていかなければならないのだと暗に伝えたかったが、美智子がいない間に仕上げたい物もあった。

 

 「それじゃ、お父さん。私、行ってくるわね。夏の間にいただいた温麺が、まだいっぱい残っているから、できれば茹でて食べてね」。美智子は10月、再び高知県へと向かった。苦しそうな顔に見えた。おそらく義務のように感じているのだろう。あれではもう、心の穴を埋めるやすらぎではなく、苦行だ。

 

 美智子の姿が見えなくなると、政彦は受話器を上げた。「ああ、んだ。もう、いぐらもしねえで出来上がるわ。ほしたら、頼むな」。弟の義彦に念押しの電話を掛けると、政彦は作業台に向かった。

 

(続)

 

 

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