あの日を境に

巨大災害によって人生が一変した人々の群像劇

(39)内臓逆位~金井七海の法廷闘争

 

金井忠司と七海の一人娘、琴美は「内臓逆位」で生まれてきた。心臓も胃も、何もかもが鏡に映したように左右反対に配置されている症状だ。手塚治虫の不朽の名作「ブラックジャック」などで知られるが、漫画の世界のお話ではなく、実際に数万人に一人の確率で生まれてくるものだと産科医に教わった。


単に逆というだけならば何ら問題はない。医師は続けて、「エコーで見る限り大丈夫でしょう。大きな病気でもしない限り、おばあちゃんになって亡くなった時、『あら逆だったの』となるだけですよ」と説明してくれた。


ところが、その「大きな病気」が悪影響を招いた。


3歳のころ急性虫垂炎で手術を受けることになり、入院したが、七海は内臓逆位について医師に伝え忘れた。そのまま開腹し、内臓や血管がすべて逆になっていることに執刀医が対応しきれず、手術は予想外に時間を要した。その間、ずっと麻酔を効かされていたことが徒となり、脳に障害が残った。


悔やんでも悔やみきれない凡ミス。病院側からは、事前に知らされていれば対処のしようがあったと指摘されたが、それまで元気で活動的な女の子だっただけに忘れてしまっていた。「そう多くある症例ではないので、医師も内臓逆位には不慣れです。病気の時は必ず伝えてくださいね」。産科医もそう口を酸っぱくしていたというのに。


責任感と申し訳なさから、琴美には全力で愛情を注いだ。小学校で教壇に立っていた七海は職を辞し、育児に専念。忠司も勤めていた会社に転勤はできない旨を申請し、家庭を大事にしてきた。贖罪の意識からにせよ、二人して普通以上に慈しんで育ててきたと思う。


ただ、他の障害児の親同様、そんな金井夫婦にとっても一番の悩みは琴美の将来だった。人は必ず死ぬ。忠司と七海も同様だ。その時、一人娘はどうなるのか。時が経てば経つほど、眠れぬ夜を過ごすようになった。


そんな時、同じ境遇の保護者仲間から朗報がもたらされた。七海らが住むI市の立志伝中の人物、福田禎一が、市内で就労支援施設を立ち上げるのだという。福田が社長を務める中堅ゼネコン「福田建設」が広大な土地を買い上げて農地を造成し、障害者に畑作をさせ、収穫物を地場スーパーに卸すという農福連携事業を手掛けるらしい。


七海らはこの話に、一も二もなく飛び付いた。話を教えてくれた保護者仲間と福田建設を詣で、自分たちの子弟も入所させてもらえるよう頼んだ。福田は快諾してくれた。

 

琴美はそれから、以前にも増して明るくなった。元々、障害があるとは思えないほど笑顔がチャーミングな子だったが、他人とも意思を通わせながら笑うようになった。役割を与えられ、働いて、賃金を得る。健常者という言葉はあまり用いたくないが、その健常者と同じように仕事をすることが、琴美に自信を植え付けたようだった。


「琴美ちゃん、女は愛嬌。笑って、笑って」。障害者就労支援施設「うみどり福祉会」を実質的に切り盛りしていた福田の母、君代がそう言って琴美を持ち上げたことも影響したのだろう。金井夫婦は君代や福田に足を向けて寝られないと思った。

 

内臓逆位で生まれ、七海らの失態で障害まで抱えてしまった琴美が、おそらく初めて感じたであろうささいな幸せ。それが、あの大津波で絶たれてしまった。忠司と七海は己と娘の不幸を呪わないではいられなかったが、その矛先は次第に福田に向けられるようになっていった。


混乱の中で当初は分からなかったものの、琴美を乗せた福祉会のバスは当日、津波警報が出てから海から1キロほどの福祉会に向かったと分かってきた。琴美ら入所者が地震発生時、普段農作物を収めている内陸部のスーパーで手伝いをしていたことも判明。それなのに、君代の指示でわざわざ沿岸部にバスを走らせたという。なぜ――。


考えれば考えるほど、分からない。それなのに、福田は理由を示さない。母子家庭で育ったとされる福田にとって、君代の否定はどうしても許せないことのようだった。とはいえ、こちらも生活を犠牲にして必死で育ててきた愛娘を亡くしている。君代にはもう語る口はないにしても、施設の災害マニュアルなりを提出してもらい、当日の行動を明らかにしてもらわないと気持ちが収まらない。

 

震災から1年後。七海は忠司と共に、S市にある弁護士事務所のドアをノックした。

 

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(続)

 

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(38)募る疑問~金井七海の法廷闘争

 

 洗い終えた食器を流しの上に置き、拭き上げ用のタオルを手に取った。金井七海は夕食の後片付けをしながら、見るともなしにテレビ画面を眺めていた。

 

 本来、後片付けは夫の忠司の担当だ。いや、洗ってはくれる。だが、ステーキを載せた皿も、ナイフやフォークにも、肉の脂がこびり付いたままだった。七海はこれが嫌で、毎度洗い直す。忠司はそれが不満のようだが、あのろうそくのような白い物体が付着したままだなんて耐えられない。忠司は自らのずさんさこそ反省すべきだろう。

 

 浴室の方からお風呂用のミニテレビの音が聞こえる。どうやら忠司も、湯船に漬かりながらテレビを見ているらしい。台所から見えるダイニングのテレビと同じく、夕方のニュース番組のようだ。それはそうだろう。今日は午前中、忠司と七海が原告として名を連ねた訴訟があった。

 

 地方局の男性アナウンサーが概要を読み上げる。「今日午前、S地方裁判所東日本大震災の犠牲者の遺族が起こした訴訟の第一回口頭弁論が開かれました」。画面が切り替わり、S地裁が映し出される。地裁脇の歩道を歩く弁護士と、その後ろに並ぶ大勢の遺族。その中に、忠司と七海の姿もあった。総勢40人ほどの一団が遺影を手に行進し、地裁構内へと入っていく様子が流れた。

 

 「訴えを起こしたのは、震災の津波で流されたバスに乗っていた障害者の両親らで、バスを運行した障害者就労支援施設『うみどり福祉会』と理事長を相手取り、安全配慮義務を怠ったなどとして損害賠償を求めています」

 

 七海たちの訴訟は今夜のトップニュースの扱いで、法廷の画面や閉廷後の記者会見の様子も用い、長々と流された。うみどり福祉会の理事長は福田禎一。七海らが住むI市の市長選に名乗りを上げている建設会社の社長でもある。津波犠牲者の遺族vs市長候補ーー。マスコミが小躍りしそうなネタだ。最後は、うみどり福祉会側の言い分がたっぷり取り上げられた。

 

 「うみどり福祉会と福田氏の代理人弁護士は、大津波の襲来を予見することは困難だったなどとして、請求の棄却を求めています。なお、福田氏は次期I市長選への立候補を予定しており、訴訟と選挙は無関係だと主張しています」

 

 まあ、責任を否定するだろうことは分かっていた。何にせよ、これからだ。七海は、必ずや一人娘だった琴美の無念を晴らしてやろうと、別のニュースに切り替わった画面を凝視しながら、あらためて誓った。

 

 琴美は震災当時、18歳。軽度の知的障害があったとはいえ、目鼻立ちの整ったかわいらしい少女だった。口を開かなければ障害があるとは分からないくらいで、よく笑う子だったことから、周りからも愛されていた。

 

 正直なところ、七海は震災があるまで、福田に感謝していた。障害を抱えた子の将来は、親ならば誰でも悩む一大事だ。特に、働き口が少ない地方都市ならば、なおさらだ。県庁所在地のS市に近いとはいえ、基幹産業も何もないベッドタウンのI市に、障害者を雇ってくれる奇特な事業所などありはしなかった。

 

 そこに、男気だけで福祉会を設立し、農作業に従事させ、作物を売って工賃とする仕組みを作ってくれた福田。自身の長男も障害者だったので、その長男のためだろうことは皆、分かっていたが、初めて賃金を得て微笑む我が子に親たちは涙した。「福田さん、ありがとな」。賛辞を惜しまなかった。

 

 震災がすべてを暗転させた。地震後に外部から福祉会までバスで戻ったという琴美ら。運転手は福祉会近くまで来て津波を目の当たりにし、Uターンしたようだが、時すでに遅く、巻き込まれて溺死した。

 

 「内陸部のスーパーにいたのに、なぜ戻ったの。津波警報が出ていると分かっていたのに、どうして海辺にある福祉会に向かったの」

 

 福祉会に戻るよう指示したとされる福田の母、君代ももう、津波に呑み込まれてこの世の人ではない。君代の指示の理由を問うと、福田は頑なになった。「なにや、うちの母ちゃんが悪いってが? 母ちゃんも死んだんだど!」。違う。誰が悪いかではない。慈しんで育てた子が、死なねばならなかった理由が知りたいだけだ。娘の最期を教えてほしいだけだ。

 

 どうしてあの子が犠牲になったのか、七海は訴訟で明らかにする覚悟だった。

 

(続)

 

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(37)幕間~氏家悠吾の奉職


失礼します。自分はI警察署地域課M交番の氏家悠吾と申します。本日はよろしくお願いします。

 

着座にてお話させていただきます。失礼します。本日は自分の祖父母に関する取材と伺っておりますが、よろしいでしょうか。え?違うのですか?江藤さんから聞いて来られた?江藤さんとは先日、東北新聞さんに載っていた、あの…。課長、自分、お話をしても、よろしいのでしょうか?あれ、課長、退席なさるんですか?

 

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参ったな。東北さん、課長とは昔からのお付き合いなんですか?ああ、次長さんなんですね。あ、お名刺頂戴します。すいません、何せこのところテレビさんから連日、密着取材だとかで同じような話をさせられておりまして。てっきり、それかと。課長も詳しくは教えてくれないし。最初から教えてもらおうと思うな、自分で考えろって、そういうところがありまして。

 

江藤さんの記事は県警に激震が走りました。私はまだ警察学校におりましたが、教官たちが非常に憤慨していたのを覚えています。まあ、あれだけ書かれたらメンツ丸つぶれですよね。私は正直なところ、あの状況下で冷静な判断ができなかったなんて、当然だろうと思いましたが。

 

学校で半年間、警察官としての所作をたたき込まれましたから、教官たちの気持ちは分かります。ただ、自分も被災して祖父母を失った一人ですから、江藤さんのお気持ちはよく分かります。あれほどの大災害に直面して、しかも甥御さんを亡くされて、忸怩たる思いをずっと抱えていらしたのでしょう。指揮官がそれを漏らすな、という県警の考えも分かるのですが。

 

しかし自分、こんなこと話していいのでしょうか。怒られないのかな。え?課長は了解しているんですか?課長、江藤さんの部下だったんですか!なるほど…。次長さん、あなた不思議な方ですね。課長は気難しいところもある方なのに、よく気を許しましたね。

 

それで、お聞きになりたいこととは?はい、あの講演の。どうして質問したかですか。うーん。取り立てて、これっていう理由があった訳ではないのですが、江藤さん、本当は別なことが言いたいのかなあと思ったんです。どこか奥歯に物が挟まったような感じがしまして。でも、さすがに署長経験者にストレートにそうは聞けないですから、自分も祖父母を亡くしているんですとお伝えしたら、こう、肩をがしっと掴まれまして。ええ、それで沼田さんの話をしたんです。あ、沼田さんは私が警察官を志望するきっかけとなった方で、現在は別の署に勤務されておられます。


沼田さんは率直な方でした。警察官は県民の生命と財産を守るのが本分です。だとすれば本当はあの時、災害現場で捜索などをやりたかったのでしょうが、ご遺体の安置も立派な業務だと誇っておられました。しかも、ただ安置所の警戒警備をするだけでなく、ご遺体一つ一つを可能な限り、清拭なさっていました。やれることを最大限、やらないと後悔するとおっしゃって。自分はああいう警察官になりたくて。江藤さんはたぶん、あの時のご自身に後悔があるんだと思います。ですから、ああいった講演になったのでしょうし、それが嫌でインタビューで気持ちを漏らされた。


自分もたぶん、沼田さんにお会いしなかったら、うつうつと過去にこだわっていたのかもしれません。でも、祖父は言ってたんです。公務員になれ、と。最初は安定した職業に就けという意味だと思っていたのですが、一体一体をお清めする沼田さんを見ていたら、そうじゃない、人のために体を動かす人間になれということだったんだと気付かされたんです。


自分、じいちゃん子でしたから、すごく後悔しました。津波が家を呑み込んだところ、見てたんです。たぶん、じいちゃんとばあちゃん、家にいるだろうって分かってたんです。でも、怖くなって海辺にあった家に近づけませんでした。引き留める友人の言に安易に従って。だから行方不明だって知ってから、すごく自分を責めました。たとえ何もできなかったにしても、自分を育ててくれた人を見殺しにするなんて、って。


特に…。じいちゃんが、ばあちゃんを抱きしめたまま亡くなっているのを見たら、自分に我慢なんねぐなって。じいちゃん、最後まで自分以外の人ば守ろうとしたのに、俺は何なんだって。あの時、学校がら坂を降りていってだら、もしかして、って。何もしねがった俺は、結局、自分がかわいいだげで、自分のためだげに生ぎでだ卑しい人間だって、本当に嫌んなりました。


じいちゃん、漁師でしたがら、泳ぎぃ達者でした。長いごど、揺れる舟の上さいだがら、足腰も丈夫でした。んでも、ばあちゃん、若い頃に肥だめに足を取られたこどあって、右脚が少し不自由でした。んだから、たぶん、じいちゃんは残ったんだと思うんです。一人なら逃げれだ!海に詳しいがら、あの津波だば残ったら死ぬのも分がってだはずだ。んでも、好ぎで50年も連れ添ったばあちゃんば残していげねって考えだんだど思うんですよ。すんげえ格好良いですよ。じいちゃん、今も俺のヒーローです。あんな人になりでえ。もう、後悔してぐねんです!全力でやるんです!俺も、自分より他人を大事にする男になりでんです!


…すんません。人前で泣くなんて、じいちゃんに怒鳴られてしまいますね。なんか、江藤さんの気持ちがもうちょっと分かった気がします。ここまでしゃべったの、初めてです。


すっきりしました。たぶん、まだ自分も溜まっていたものがあったんですね。祖父母のためにとか、犠牲を糧にとか、美談に書かれますけど、そんな大したもんじゃないです。自分はまだ、じいちゃんがくれた宿題を解けていないですから。取材をお受けするのはこれを最後にして、人のために働ける警察官目指して職務に邁進します。本日はご指導、ありがとうございました!


(氏家悠吾・完)

 

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(36)誰かのために~氏家悠吾の奉職

 

 氏家の警察学校での生活も残り少なくなった9月11日の朝、学校のみならず、県警全体に激震が走った。この日は東日本大震災の月命日というだけでなく、半年ごとの節目として、3月11日に次いで関連報道が増える。そのうちの一つの記事が、4000人強いる警察官一人一人の心に一石を投じた。

 

 「未曽有の災害に混乱 指揮できず」「被災署長『自分が部下殺した』独白」

 

 東北新聞の朝刊社会面にセンセーショナルな大見出しが踊っていた。記事の主人公は県警の元警視、江藤義彦・元I警察署長。震災発生直後の回顧録仕立てになっており、大津波で署員6人が殉職したのは自らが適切な指示を怠ったからだと述べていた。津波警報が出ていて、沿岸部への警戒に出動した人員まで把握していたのに、次々と舞い込む被害状況への対応に追われて部下の命を顧みなかった、という趣旨だった。

 

 「なんだ、これは!」。校長や副校長、教官らが憤り、それぞれが手にした朝刊を机や床にたたきつけた。

 

 「警察一家」と揶揄されるほど縦横の関係性が強固な警察組織にあっては、たとえOBといえども古巣批判は許されない。というよりも、許さないと言うべきか。そのために退職後も階級に応じた第二の職場があてがわれ、現職時代に知り得た情報の保秘を徹底するよう縛られる。あの巨大災害に対しては、いかなる組織も無力だったにせよ、それを対外的に認めることは治安維持機関としての敗北を認めるようなものだった。

 

 ただ一人、氏家だけは教官らの憤慨を尻目に、さもありなんと考えていた。

 

 江藤は先日、被災当時の最前線の警察署長として学校に招かれ、災害時のリーダーシップの在り方について講演していった。氏家も金言を拝聴したが、江藤の発言はどこか現実味に乏しく、たとえて言えば、あの遺体安置所にいた沼田巡査部長のような真に迫る物言いとは言い難かった。

 

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 奥歯に物が挟まったかのような語り口が不思議で、氏家は講演後に近づいて縷々質問したものだが、涙目になって氏家の手を握るばかりで、有益な回答はなかった。自分も祖父母が犠牲になり、その遺体を清めてくれた警察官に感動してこの道を志した旨を告げると、「その気持ち、わしぇねで(忘れないで)けろな」と肩を掴まれたことが印象的だった。署長経験者の警視と言えば、何千人といる警察職員のうち年に十人ほどしかいない。その大幹部を今も苦しめる当時の最前線とはいかばかりだったか、考えずにいられなかった。

 

 その後、県警と江藤、東北新聞との間でどのようなやり取りがあったのか、下っ端の氏家には知る由もなかったが、講演の内容と正反対の、しかも古巣批判のインタビュー記事は、真実性を否が応でも高めた。物事は一方向から見ているだけでは分からない。後に刑事畑に進む氏家の記憶に、そのことが強く刻み込まれた。

 

 半月後、氏家は期せずしてI警察署に卒配された。新米が県内最大のS市に隣接する都市部の警察署に配属されるのは、将来を嘱望されている証拠と言っていい。五十音順で警察学校の入校式あいさつに指名され、惣一とカツを志望動機に挙げたことが報道機関の耳目を集めた結果とも言えた。「祖父母の犠牲胸に 僕、警察官になるよ」。若者の美談は県警の広報戦略にも叶うらしく、早速、どこかのテレビ局から新人奮闘記の密着取材要請が来ているという。

 

 客寄せパンダ扱いは好きではないが、ポジションを与えられなければ、誰か他人のために汗を流したあの時の沼田のように輝くことはできない。氏家は清濁併せ飲み、I警察署で警察官人生をスタートさせた。

 

 「前進」。署長室の前に掲げられた木製プレートの由来はまだ知らないが、氏家は自分を鼓舞する言葉と受け取った。「公務員さなれ」という惣一の教えが今、現実となった。

 

(続)

 

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(35)祖父母のお清め~氏家悠吾の奉職

 

 一週間ぶりに足を運んだ町営ホールは以前より整然としていた。震災発生直後は次から次へと遺体が運び込まれていたが、見つかる遺体の数が減ってきたことに加え、搬入と安置に当たる警察、消防、自衛隊が業務に習熟してきたのだろう。膨大な遺体を扱ったことで得られたスキル。氏家は何とも寒々しいものを感じた。

 

 惣一とカツは二人一緒に並べられていた。半世紀も連れ添い、大波にさらわれても離れなかった祖父母だ。担当者の配慮がありがたかった。

 

 あらためて明かりの下で二人を見ると、ずいぶんと汚れていることが分かった。衣服こそ身に着けているものの、ところどころ破れている。何より、地肌がさらされている顔や首、手が泥だらけで、髪の毛の間にまで詰まった泥で毛が固まってしまっていた。80年近く必死で生き、つましい生活ながらも子を育て、孫の面倒まで見てきた実直な夫婦の最期がこれでいいのかーー。氏家は、死者の尊厳まで踏みにじる災害の在りように悔しさが募り、拳を握りしめた。

 

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 墓どころか自宅まで流失し、避難生活を続けている身ではできることがないということで、惣一とカツの遺体をひとまず安置所にお願いし、氏家たちはいったん引き上げた。父と母は父方の兄弟ーー父には弟が二人いるーーがいるS市内に向かい、今後について話し合ったようだ。一両日して、伯父二人がやって来た。

 

 父が町営ホールに電話し、今から親族と向かう旨を告げたところ、惣一とカツの遺体は松島湾を挟んだ対岸にあるR町の体育施設に移されたと聞かされた。増え続ける遺体にスペースが追い付かなくなり、県内一の観客収容者数を誇る施設に業務移管したのだという。施設は人気アイドルのライブや国際スポーツの会場に選ばれるほど巨大な場所だった。

 

 氏家は父と伯父二人と共に、R町の施設を訪れた。伯父二人は震災後、惣一とカツに初めて対面する。気を遣って脇で眺めるにとどめようと考えていたが、安置所に着くやいなや驚きのあまり遺体に駆け寄って声を上げた。

 

 「じいちゃんとばあちゃん、きれいんなってら」

 

 S町の町営ホールに置かれていた時とは雲泥の差だ。髪の毛の泥が拭き取られ、顔や手にこびり付いていた泥も見当たらなくなっていた。鼻や耳の穴に詰まっていた物も拭き清められていて、もちろん、すべてとはいかないものの、見違えるほどだった。不思議に思って、そばを通った係員に尋ねると、県警の方針だと教えてくれた。

 

 数万人の観客を動員できるアリーナには、それこそ数えきれないほどの遺体が運び込まれていた。そのすべてが泥にまみれていたのかどうかは分からなかったが、おそらく状況は似たようなものだろう。何千体という数の遺体に寄り添い、一体一体に清拭を施した警察官の行動に、氏家は崇高なものを見た。

 

 泥だらけの惣一とカツを目の当たりにしていただけに、余計に胸が熱くなった。思わず「POLICE」の縫い取りがある防災服の男性に声を掛けると、沼田と名乗った警察官が話をしてくれた。

 

 普段、内陸部の警察署に勤務していること。沿岸部の署に所属する同僚は皆、遺体の捜索や現場の警戒など最前線業務に当たっていること。これほどの大災害で、一人にできることなど高が知れているけれど、安置所の担当になった以上は最善を尽くすべきだと考えたことーー。沼田は「困っている人を助けたくて奉職した。今、全力でやらないと、絶対に後悔するからね」と続けた。特に上司の指示があって清めたのではなく、担当者が現場で考えて対応したという。

 

 浅黒く日焼けした巡査部長が、気を落とさないよう氏家を励まして立ち去ろうとする。氏家はそんな沼田が素直に格好いいと思った。言うは簡単だが、家族でさえ、泥だらけの遺体をどうしていいのか分からなかった。アリーナ全体に安置された他人の遺体に向き合うなど、途方もない作業だ。「公務員さなれ」。ふと、惣一の教えが蘇ってきて、あれは安定した仕事に就けということではなく、人のために働く人間になれという意味だったのかと思い至った。

 

 「沼田さん、どうやったら警察官になれるんですか」。中学を終えたばかりの少年の場違いな質問に、沼田は微笑みながら説明してくれた。

 

(続)

 

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(34)遺体安置所へ~氏家悠吾の奉職

 

 S町は高台を中心に、いくつかの集落が沿岸部に点在する。寄り集まっていた方が何かと都合が良いのだろうが、海沿いには硬い岩盤の峰がいくつもあり、その峰を避ける形で低地に家々が建てられていた。

 

 津波はこの峰々までは砕けなかったようで、地形が変わることはなかったが、そのため峰々のふもとには大量の津波堆積物があった。住宅のがれき、なぎ倒された樹木、車などが流されてきて、津波が引くとともに、その場に残された格好だ。

 

 惣一とカツは、そうした車の下で見つかった。発見した警察官が、被災車両の撤去に当たっていた県に連絡し、車をどけてもらう手続きを取ってくれた。氏家にはどういう原理なのか分からなかったが、打ち寄せられた車が波の力で縦に積み上げられたようになっているところもあり、そのままでは崩れる恐れもあって、一度車を脇に避ける必要があった。

 

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 遺体発見の翌日、県職員が現地にやって来た。どこかの都道府県だかの応援で寄越されたというレッカー用の重機を持ってきていて、クレーンの先にマジックハンドのような巨大な治具が据え付けられていた。運転手がクレーンを操作し、慎重に車を持ち上げていく。1台、2台、3台目をどけたところで、惣一たちの背中が見えた。

 

 氏家が父と一緒に駆け寄る。話に聞いていた通り、二人は折り重なるようにして一緒にいて、氏家は再び目頭が熱くなった。

 

 惣一は多くを語る男ではなかったが、氏家が中学に上がり、好きな女子生徒ができたことを打ち明けると、カツが惣一との馴れ初めを話してくれたことがある。

 

 今と違って世界がまだ狭かった時代のこと。二人は峰を挟んで隣り合う集落に生まれたが、年齢が七つ離れていたこともあって、学童として出会うことはなかった。そんな二人の初対面は考えうる限り、最悪だった。カツが15歳になった頃、家の手伝いで隣の集落ーー惣一が住む集落の親戚宅を訪ねた際のことだったという。

 

 12月に入り、雪が積もった寒い朝だった。カツが隣の集落から峰を登ってきて、親戚側の集落へと降りていくらも歩かないうちに、急に足が沈んだ。道路端にあった肥溜めを踏み抜いてしまったのだ。通常、肥溜めの上には、それと分かるトタン製の傘が掛けてあるものだが、この日は雪の重みで倒れており、辺り一面真っ白になっていたこともあって道路かどうか分からなくなっていたのだ。

 

 肥溜めなど見掛けない現代では理解できないことだが、当時はままあったことだそうだ。幸運なことに右足だけで済んだそうだが、うら若い乙女が御遣いの途中に糞尿の臭いを撒き散らすことは耐えられなかろう。カツが誰にも出会わないうちに退散しようとしたところに、早朝の漁を終えて海から上がってきた惣一と出くわした。

 

 惣一、当時22歳。男ぶりもよかったそうで、そんな若衆に羞恥の極みとも言える場面を見られたことでカツはしゃがみ込んでしまった。一目見て状況を察した惣一は、カツの手を引いて海辺へと取って返し、自分の舟に乗せてあった手桶で海水をすくって汚物を洗い流してやった。当時は漁の後に薪をくべ、暖を取る習慣もあったことから、燃えさしに再び火をつけ、かじかんだ右足を温めてやったという。

 

 その間、惣一は無言だった。それが逆にカツの心に響いたようで、何も言わずに恥部をなかったことにしてくれる男気に惚れ、以後、暇を見つけては隣の集落に顔を出すようになっていった。

 

 「あいなんでは、何しゃべったって、傷つけっぺ」。惣一は氏家が話を向けても、それ以上を語らなかったが、口数が多ければいいというものではないと学んだ。むしろ、黙して語らず、結果で示す男になりたいと思ったものだ。

 

 その惣一が、カツと一緒に変わり果てた姿で見つかった。氏家が見た、あの津波の黒さは海底から巻き上げられた泥が原因だったのか、二人は髪の毛から爪先まで泥だらけだった。一緒に流された物で傷ついたとみられ、擦過傷も至る所にあった。

 

 次から次へと涙があふれてくる。人は悲しいと、声もなく、涙だけが流れ出る。傍らにいた父も同様で、辺りには鼻をすすり上げる音だけが響いた。駆けつけてくれた県職員も、車を持ち上げてくれた業者も、もらい泣きしていた。

 

 「お気持ち、お察ししますが、ここは冷えます。仏さんも、ここじゃ浮かばれない」。見守っていた警察官が、氏家と父に声を掛けた。遺体安置所に運ぼうと提案する。むろん、否やはなかった。

 

 この遺体安置所で、氏家は人生を左右する人物に出会った。

 

(続)

 

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(33)折り重なる二人~氏家悠吾の奉職

 

 コンクリート製の基礎とカーポートの柱の残骸。氏家の自宅には、それしか残されていなかった。自宅「跡」と言ってよかった。

 

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 氏家宅だけではない。同級生の吉井の家も、ほかのご近所さんのところも、住宅と呼べる建物は根こそぎなくなっていた。鉄筋コンクリート造の漁協事務棟だけが、かろうじて原型を留めていた。もっとも、あの漁船が2階部分に突き刺さったままで、地上から見上げる位置に船底があるという、何とも不思議な光景が広がっていた。

 

 「戦争でもあったみてえ。戦争、知らねんだけど」。高台から一緒に降りてきた吉井が軽口をたたく。普通、こういった場面でのおふざけは眉を顰められるものだが、吉井の表現が最も適切に思えた。何もかもが変わってしまっていて、本当にここが生まれ育った場所なのかと思った。

 

 「兄ちゃん、父ちゃんと母ちゃんだ」と、伴ってきた弟が袖を引く。見ると、父母がそれぞれ、町道を自分の車でやって来るところだった。辺り一面、何もないので自宅の場所が分からなくなってしまったようだ。手を振り、合図をした。

 

 「悠吾、無事だったが! いがった!」

 

 父が開口一番、兄弟の身を案じたので、ああ、これはやはり現実なのだ、と強く思い知らされた。目覚めたら卒業式の日の朝だったーー。そんな夢オチを期待する自分がいた。人間、途方もない事態に巻き込まれると思考が停止し、脳が巻き戻しスイッチを押すのかもしれなかった。

 

 聞くと、両親とも氏家の卒業式を終えてS市の会社に戻ったところで被災し、そのまま会社に足止めされていたという。比較的被害が軽微だったS市中心部は携帯電話がつながったようで、両親は互いに連絡がついたが、海沿いのS町には全くと言っていいほど連絡がつかなかったそうだ。

 

 当然だ。家が、ないのだから。まだ小中学生の氏家兄弟は携帯を持っていなかったし、「オラだづは携帯、『不携帯』だがんな」が持ちネタの祖父母は本人たちの行方さえ分からない。

 

 「なに、じいちゃんとばあちゃん、どごさいんだが分がんねのが?」。父が氏家の肩を揺する。氏家は、漁船を持ち上げて事務棟に突っ込ませるほどの津波が襲ってきて家も呑み込まれたこと、その後は中学の教室に弟と一晩泊まったこと、夜が明けると家がなくなっていたことを伝えた。

 

 避難所に、惣一とカツは来ていなかったことも。

 

 父はしばらくの間、うつむいて何事か考えていた。氏家の肩を両手で掴んだままだったので、「父ちゃん?」と呼び掛けたが、反応はなかった。そのまま、3分ほどだろうか、身じろぎもしなかったが、意を決したように顔を上げ、涙目で家族に告げた。

 

 「安置所さ行ってみっぺ」

 

 吉井とはそこで分かれ、父の車に母と弟、氏家の4人が乗って安置所に向かった。母の車は自宅まで来る途中、がれきの中に含まれていた釘でも踏み抜いたのか、パンクしてしまっていた。

 

 高台の一角にある町営ホールが仮設の安置所になっていた。普段、催し物が開かれる会館は警察や消防、自衛隊の車両がひっきりなしに出入りし、物々しい雰囲気に包まれていた。泥まみれの彼らは黒いバッグを次々と運び込んでいく。明らかに人型をしていて、何が入っているかは一目瞭然だった。

 

 後に分かったことだが、震災の発生間もないこの頃は、まだ遺体の身元はもちろん、照合する帳簿も何もなかった。係員に人相風体や居住地を告げ、探してもらうくらいしか方法がなかった。それでだろうか、この日は惣一とカツを見つけることはできず、4人で避難所となっていた中学校に身を寄せた。

 

 「じいちゃんとばあちゃん、どこかにいるってことだよね?」。まだまだ幼い弟が、希望的観測を口にする。「そうだな。そうに決まってる」と氏家。母は同調してくれたが、父は何も語らなかった。

 

 自宅は二階から釣り糸を垂れることができるほど、海の目の前だ。すぐそばを町道が通っているとはいえ、祖父母はかなり前に車を手放していた。バスは1時間に1本走っているが、地震の後に運行していたかは甚だ疑問だ。自転車に乗ることはあったが、1台しかない。2人を取り巻く環境が分かっているだけに、厳しい事態に直面していることは否めなかった。

 

 そのまま6日が過ぎた。父と母は毎日のように安置所に通っていたが、祖父母は見つからなかった。むろん、どこの避難所にもいない。この頃には、行方不明は死と同義になりつつあった。諦めが氏家たちを支配していたが、口にはしない。どこかで、やはり生きていてほしいと強く願っていた。

 

 1週間目の3月18日、二人は遺体となって発見された。自宅から30メートルと離れていない場所で、津波に流されてきた車の下にいるのを、救助活動に当たっていた警察官が見つけてくれた。

 

 猛烈な勢いの濁流に巻き込まれただろうに、惣一が右手でカツの右わきの下に手を入れる形で、二人は折り重なるようにして一緒に倒れていたという。戦中派にしては珍しく、二人が恋愛結婚だったことを思い出し、氏家は右腕で顔を覆った。嗚咽が止まらなかった。

 

(続)

 

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(32)自宅の流失~氏家悠吾の奉職


自宅に向かって駆けだそうとしたところで、左腕を掴まれた。先ほどまでダベっていた友人の一人、吉井だった。

 

「どこ行く気だ。見て分かんだろ。降りてったら死ぬぞ」

 

吉井の言うことは分かる。真っ黒い津波は漁船だけでなく、海辺の住宅や木々をもなぎ倒し、氏家らがいる高台へと迫っていた。2階建ての漁協事務棟に漁船が突き刺さるということは、津波高はゆうに10メートルはある。今いる場所は事務棟より20メートル以上は高いので大丈夫だろうが、海辺に降りることは死に直結するだろう。

 

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ただ、事務棟の近くには氏家の自宅がある。午後4時前の今頃は、いつもなら祖父母が昼寝から起きだしてくる頃だ。


「じいちゃんとばあちゃん、見捨てろってか!」

 

 氏家が左腕を振りほどくと、吉井は頷いて「お前んちのことは分かってる。でも、無理だろ。よく考えろ」と続けた。吉井の家も氏家宅のそばで、確か祖母がいたはずだ。緊急時にも冷静さを失わない竹馬の友に、頭が下がった。

 

「あの揺れだ。普通に考えて、避難してるはずだろ」と肩を抱いてきた吉井の考えにすがり、氏家は、二人を見捨てるのではないと自らに言い聞かせた。確かに、地震から津波まで50分くらいの時間があった。惣一とカツも逃げたはずだ。そう信じ込むことで、氏家は気持ちを落ち着かせようと試みた。


吉井に促されて戻った体育館には、既に大勢の町民が避難してきていた。ほんの2時間ほど前まで、子どもたちの旅立ちを見守るスーツ姿の保護者が居並んでいたのに、今は着の身着のままで逃げてきた老若男女がひしめき合っていた。聞くと、道路向かいの小学校も、隣接する町役場の1階や議会棟も人でいっぱいだという。

 

氏家は人波をかき分けて祖父母の姿を探した。中学側にはいない。小学校の方にもいなかった。次第に焦りが募る。小学校の体育館にいた弟を連れ、役場に向かったが、こちらも空振りに終わった。冷たい汗が背筋を伝う。「氏家惣一とカツはいませんか!」。議会棟に飛び込み、大声で叫んだが、返答はなかった。

 

弟が氏家以上に顔を曇らせ、涙をこらえているのが分かったので、額を小突いてハッパをかけた。「大丈夫。じいちゃん漁師だぞ。津波なんてきっと乗り切って、どこかにいる」。弟に向けて放った言葉は、自らを鼓舞するものでもあった。

 

結局、その日は中学の自分の教室に身を寄せた。もう来ることもないだろうと思って卒業式に臨んだのに、小学生の弟も一緒にまた戻ったことに違和感があった。そうは言っても、暗くなって海沿いが見えなくなったことで安全性が確認できなくなったし、津波が再び来ないとも限らない。役場と相談した教師陣が学校に留まるよう指示したのだった。


教室に泊まるのは、もちろん初めてだ。仙台に働きに行っている両親とも連絡が取れない。停電のため真っ暗闇の教室の雰囲気も相まって、氏家は惣一とカツのことを考えて胸苦しくなった。チョークの臭いが鼻につき、訳もなく白墨が憎たらしかった。


まどろむことさえできないまま一夜が明けると、高台から見下ろす海沿いに、衝撃的な光景が広がっていた。

 

家が、なかった。

 

(続)

 

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(31)突き刺さる漁船~氏家悠吾の奉職


その日、中学の卒業式を終えた氏家は3年も通った場所を離れがたく、式があった体育館脇で級友らと無駄話に花を咲かせていた。輪の中にいる連中は、高校から別々になる者も多い。中学というより、地元を離れるような気分になっていたのだろう、1時間以上は残っていた。

 

そんな感傷が、氏家の身を助けた。


突然、体育館に至る通路に設置してあった木製の渡り廊下が縦に揺れた。氏家は最初、誰かがいたずらで渡り廊下の端を踏み、てこの原理で持ち上がったのかと思ったが、続く横揺れでただ事ではないと察した。「伏せろ!」。誰かが叫び、皆でうつぶせになって手で頭を守った。

 

「ボン!ガラガラガラガラ!」

 

揺れが続く中、氏家からは死角になっている体育館の壁の裏の方向から、途方もない爆音がした。「ズン!」。さらに、何か巨大な物が崩れ落ちる音もした。女子生徒たちが悲鳴を上げ、氏家ら男子もおののいた。


地震が収まった後で音がした方を見に行くと、体育館のコンクリート壁が割れ落ち、鉄筋がむき出しになっていた。「こっち側でダベってたら、つぶれて死んでたな」。同級生の一言で想像力がいや増し、氏家はひしゃげた鉄筋を見ながら背筋を凍らせた。

 

そこにサイレンが鳴り響いた。氏家らは辺りを見回したが、学校の校内放送ではないようだ。とすると、後は隣接する町役場の放送しかない。これが避難訓練の時に役場の職員が話していた緊急放送か――。経験したことのない状況が続き、氏家の心臓も早鐘のように鳴り響いた。


「津波警報が発令されました。海沿いにいる方は高台に避難して下さい。役場付近にいる方は、そのまま動かないでください」

 

役場の女性職員だろうか。やけにゆっくりとした話し方の声が、帰宅しないよう求めた。氏家らが住む、ここS町は、役場や学校といった行政、文教施設が高台にあり、その高台を囲むように住宅地が点在する土地だった。

 

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「帰るなったって、もう帰っちまった奴らの方が多いんでね?」。別のクラスメートの意見に氏家も頷いたが、緊急放送が告げる通り、津波が来るのならば留まっていた方が正解だ。目算だが、学校周辺は氏家宅より二十数メートルは高い。9年間、毎朝、あれほど呪った劇坂が、この時ほど頼もしく思えることはなかった。

 

「しまった!弟!帰っちまったかもしんねー」


氏家は道路向かいの小学校に通っている弟の存在にハタと思い至り、見に行くことにした。「大丈夫だって。津波ったって、いっつも、ちょこっと波が高くなるだけだっちゃ」と級友の言葉が追い掛けてきた。

 

確かに、いつもは警報が出ても津波高は数十センチで心配損だったが、この日ばかりは嫌な気がした。体育館の壁が崩れ落ちたのを目にしたばかりだったかもしれない。小学校側へとダッシュした。


「おっ、お前、兄ちゃんお迎えじゃん」。3年前まで慣れ親しんだ校舎に入ると、弟は友人と一緒だった。小学校もこの日、6年生の卒業式で、送り出す側だった弟もセレモニー後の片付けに駆り出されていたようだった。氏家は大きく息を吐き出し、警報が解除されるまで校舎にいるよう弟に言い含め、中学校側に戻った。

 

小学校から中学校へと、町道を渡ろうとした時だった。町内で最も見晴らしの良い場所で、晴れた日には遠くに風光明媚な松島の群島が見えるのだが、その松島よりも南側、太平洋の方向から大量の波が押し寄せてくるのが見えた。


波頭こそ白いものの、海にいつもの青さはなく、強いて言えば真っ黒だった。それがテトラブロックを越え、岸壁を呑み込んだかと思ったら、漁港内の海水がまるで漫画のように数メートル持ち上がり、係留された漁船を浮き上がらせた。津波はその漁船ごと上陸。漁協事務棟や付近に停めてあった車にぶつかっていった。

 

「ヒッ」

 

 漁船が事務棟に突き刺さる様子を目撃し、氏家は小さく悲鳴を発した。事務棟の3軒隣が、氏家の生家だった。

 

(続)

 

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(30)海沿いの生家~氏家悠吾の奉職

 

「お疲れさまです。失礼します」

 

氏家悠吾は校舎入り口のソファに座っていた来校者の前でピタッと立ち止まり、帽子を取って頭を下げると、一拍置いてすぐ、小走りで体育館に向かった。坊主頭にジャージー姿。これから体力の錬成の課程で、今日は10キロ走が行われる。

 

氏家は県庁所在地S市の南隣、N市にある警察学校に在籍している。福島県の大学を卒業し、そのまま入校した。丸坊主はもちろん、初日に携帯電話まで取り上げられて、軍隊式の声出しからスタート。無理やりスイッチを切り替えられるような前時代的やり方が規律を重んじる警察らしく、ますますやる気が漲った。

 

1週間後の入校式には、背筋がピンと張った青年に変わっていた。「警察官は立ち姿が美しくなければならん」。教官の持論というより、警察全体の考えのようだった。「じいちゃん、ばあちゃん、俺、頑張るぞ」。氏家は学生代表の宣誓を耳にしながら、警察を志すきっかけをくれた祖父母に心の中で誓った。

 

氏家は1995年、S市の東に位置するS町に生まれた。町役場や小中学校といった中心街は小高い丘の上にあり、丘を囲むように大小さまざまな集落が海沿いに点在する町だ。電力会社の発電所が海沿いにある程度で、地場産業は漁業ぐらい。多くの大人はS市に職場があった。

 

祖父母と両親、弟との6人暮らしだった氏家は、両親がS市内で共働きしていたこともあり、祖父母に育てられた。

 

祖父の惣一は元漁師。年を取って引退したが、ノリの養殖を長年手掛けてきた。海の男らしく豪放磊落な一方、礼儀作法には滅法うるさく、目上の人間に対する態度が悪いと、よく殴られた。長年、養殖いかだやロープをたぐってきた両の腕は丸太のようで、手が出る時は「ブン」と腕を振り回す音が聞こえたものだ。いきおい、氏家は礼儀正しい少年になった。

 

祖母のカツは反対におっとりした性格で、「悠ちゃんは稼ぐねえ」が口癖だった。子ども時分のこと、もちろん氏家に収入がある訳はなかったが、風呂掃除や配膳の手伝いなどをすると決まって、そう言われた。茶碗を落としても「大丈夫がい?」と氏家の体を気遣う人で、怒ったところは見たことがなかった。剛の惣一に柔のカツ。人間とはうまくかみ合うものだと、子供心に得心した。

 

そんな二人が常々、氏家と弟に言い続けてきたことがあった。「公務員さなれな」。漁村に生まれ育ち、学問の機会に恵まれなかった二人は、惣一が海の上、カツが家事と子育ての傍ら魚介を売り歩き、何とか生計を立ててきた。それだけに、子弟には勉学に励ませ、余裕のある暮らしを送らせたいという思いがことのほか強かった。

 

礼儀作法やものの考え方だけでなく、遊びも二人に教わった。特に男孫のこと、惣一は氏家にとって格好の遊び相手でもあった。漁師だったこともあって自宅は海に面した場所にあり、2階にある氏家の部屋のベランダから釣りができるほどだった。海を熟知した惣一はさすがに竿使いがうまく、ものの数分でバケツいっぱいの魚を釣り上げることもあった。部屋が魚臭くなるのは叶わなかったが、ほかに大した娯楽もない田舎集落のこと、惣一に教わる遊びが氏家のすべてだった。


刺激は少ないものの、祖父母に見守られ、穏やかでのんびりした子ども時代。そうした氏家の世界は、皮肉なことに慣れ親しんだ海によって壊された。

 

 氏家15歳。中学の、卒業式当日のことだった。


(続)

 

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(29)幕間~江藤美智子の遍路道


ああ、わざわざお出でいただいて、すいませんでしたね。江藤と申します。東北(新聞)さんの、おっ、次長さんですか。

 

よく私がここに勤めてることが分かりましたね。前職とまるで畑違いでしょ。スーパーマーケットチェーンですよ。え?蛇の道は蛇?さっすが、ブン屋さんは違うわ。後輩たちが口を滑らしたんだなあ、さては。

 

んでも、ブン屋さんと話すのは楽だし、ざっくばらんに言えるから楽しいですよ。警察時代に勝手知ったる感じっていうかなあ。全国チェーンの大手だからね、事業会社制の東北カンパニーとはいえ、相談役なんて肩書きなもんだからスーツ組は堅苦しいことこの上なくて。東北弁も出ない垢抜けた連中だし。

 

だけどさ、私で良かったんですか?兄貴夫婦じゃなくて?え、あの木製プレートのことじゃないんですか。前進、てやつ。まあ、あれから、もう2年になりますしね。福田さん?福田建設の?はあ、社長さんから聞いてきたんですか。いやいや、おしょすい(恥ずかしい)なやあ。確かに、震災直後は取り乱してましてね。うん、言いました。「現実はいつだって冷徹」ってやつですね。

 

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40年も警察官やってたらさ、そりゃあ色んな現場踏みましたよ。交通事故だって火事だって、時には事件も。現場はだいたい凄惨なもんですよ。時には小説か、ってこともありましたしね。


忘れられないことがあるんです。もう20年くらい前ですがね。朝方に火事があったんです。その日は当直長でしてね。発生があってすぐ、署員を向かわせました。消火して、消防さんと見分やって。80代のご夫婦の家だったんですけど、寝室で二人が折り重なるようにして炭化してました。


でも、おかしいでしょ?普段、別々のベッドで寝てるっていうのに、ばあさんの方がじいさんの上に乗ってたんですよ。近所を聞き込みしたら、じいさん、脚が悪くて普段から寝たきりでした。ばあさん、火事に気付いて起きたけど、じいさん担いで逃げる体力はないと考えて、一緒に死のうって決意したんでしょうね。


すげえ二人だって思いましたよ。でも、それだけでした。その後に火付けだって分かって、しかも被疑者が15歳だったもんですから、そっちに掛かりきりで。なんせ被害者2人の放火殺人事件ですから。帳場はしっちゃかめっちゃかで、逮捕後は人権派弁護士だとかも押し掛けてきて、ご夫婦のことはすっかり頭から抜け落ちてました。


事件送致して検察が立件したら、俺らの仕事は一丁上がりです。近頃じゃ犯罪被害者に寄り添うようになりましたが、あのころはそんなもんないです。それが、犯罪じゃないにしても、身内が被害者、まあ被災者か、この場合。そうなったら、我を忘れちまいました。何のことはない、冷徹さに慣れ過ぎちまって、本質を見失ってたんです。


この前、警察学校で講演させられたんです。震災時の被災地の署長だってんでね。県警に求められるまま、しゃべりましたよ。「指揮官が冷静さを欠いたらいかん」って。でも、福田さんの話を聞いたんでしょう、そんなのウソです。あれで冷静でいられたら、ロボットですよ。

 

 .......。ああ、すまねな。


本当は沿岸さ向がった22人全員、引き返させるべきだった。津波、6メートルだど?んだげっど、次々入ってくる情報さ混乱すて、抜げっちまってだ。そすたら6人と連絡取れねえど。中には孝則もいるんだど。何もかも吹ぎ飛んださあ。30年以上、見できた甥だがんな。俺には男の子できねがったから、息子みでな気ぃすてだんだ。そいづば、俺が殺すたようなもんだべ。俺が戻れって言ってだら、戻んだおん。警察じゃ上の命令は絶対だがんな。分がってだはずなんだ。んでも、俺はあん時と同じで、被疑者ばっかし、津波ばっかし考えでだ。被害者さ忘れった。ひとっつも冷静なんかでばねがったんだ。何が警視だ、署長だ。身内1人も守れねで。


なのに、俺はウソばついだんだ。目ばキラキラさせで、県民のためさ頑張んだって肩肘張ってる若者さ。


ウソだらけの講演終わったらや、1人残って、質問さすに来たやづがいだんだ。そいづも、じいちゃんとばあちゃん、津波でやらったんだど。その後、遺体ば運んでけだ警察官に感激したんだどや。そんだがら、自分もお巡りさんになりでんだってやあ…。


そいづの顔、真っすぐ見らんねがった。んだって俺、混乱して甥っこば殺したんだど?んだげど、「現場では常に冷静な判断が求められます」って、はあ。俺はそんないいもんでね。震災の苦難ば乗り切った署長だなんて持ち上げられっけど、右往左往してや、結局何もすねで、6人も見殺すにしたバガでねが!孝則だげでね。乳飲み子抱えでだやづら3人もいだのに、母ちゃんの介護すてだやづもいだのに、4月になったら結婚するやづもいだのに、みんな俺が死なせですまった!


あんだ、不思議な人だなやあ。警察の中さいっとや、肩肘張ってねえどなんねくて、つれがったんだ。んだがら誰さも話すたごどねがった。なんもかんも吐ぎ出したら、スッとすた。

 

 ブン屋さんよ、墓場まで持ってぐ気だったげんと、書いでけろ。何もでぎねがったバガ署長がいだってや。記事さ載れば、まだあった時、後輩だづの反面教師にはなっぺ。オレはもうは、若いやづが死ぬの、耐えらんね。県警はイヤな顔すんべけど、頼むわ。でっかぐ載せでけろ。

 

(江藤美智子・完)

 

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(28)美智子の前進~江藤美智子の遍路道 


 「津波殉職者の『前進』に敬礼」

 

2016年11月、地元の東北新聞に、そんな見出しの囲み記事が載った。写真はI警察署の署長室前。壁面に政彦が木製プレートを掲げ、妻の美智子がその様子を見詰める1枚だ。二人の後ろには大勢の署員がいて、プレートに敬礼する姿が映り込んでいた。

 

記事に書かれた出来事があってから、10日ほどが経過していた。美談だとして、東北新聞を見た他のマスコミから取材依頼が殺到。孝則の犠牲を風化させたくなくて、できうる限り応じてきたが、それもようやく一段落したようだ。

 

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あの日、孝則に「前進」の言葉を贈った上司も駆け付けてくれた。話には何度も聞いていたが、顔を見るのは初めてだった。政彦が「ようやくお会いできました」と水を向けると、上司は顔をくしゃくしゃにし、人目もはばからず号泣した。

 

「私が悪いんです。私が殺したようなもんなんです。前進、前進て、それだけで、前途ある若い命を散らせてしまった。5年間、1日だって江藤のことを忘れたことはなかった」

 

手をついて詫びる上司に、政彦はあえて軟らかい調子で言葉を掛けた。

 

「孝則は警察に入るまで、いわゆる『外のメシ』を食べたことがありませんでした。学生気分が抜けないまま、私の手伝いをしていただけです。あなたが、初めて社会人としての基本を説いてくれた。感謝こそすれ、謝られる理由はないですよ」

 

震災当時、I警察署長だった弟の良彦が上司の脇の下に両手を入れ、立たせる。背中をたたいて、「もう、あれがら、いっぺえ泣いだべ。今日は泣ぐ日でねど。孝則って立派な署員がいだごどを讃える日なんだど。あ、伯父の俺が言うのはおがしいが」と続けた。湿り気を帯びた空気が明るいものに変わるのが分かった。

 

プレートの奥の部屋、署長室には孝則を含め、あの日に殉職した6人の遺影が飾られていた。年齢も階級も、家族構成もさまざまで、中には警察に対していまだに心を開かない遺族もいると聞いた。ただ、政彦は5年たっても毎月、月命日に署幹部を寄越す警察の姿勢に感じ入るものがあったし、弟をなじる気もなかった。

 

「5年経ったとか、7回忌になるとか、数字の上での節目は遺族に関係ないです。今だって孝則がカンナを掛けているような気がして、隣の作業台を見るんです。でも、私たちは生きている。あいつが悪かったんだ、あの時こうしていればって、過去にとらわれているだけでは、私たちまで海に引きずり込まれる。そんなこと、孝則が望んでいる訳ないと思うんですよね」

 

泣き伏した上司への言葉だったが、本当は美智子に向けたものだった。

 

帰路の車中、美智子に水を向けた。


「勝手に話さ進めで、悪がった。うまぐ言えねんだげんと、もう、こごらで終わりさしねが。俺だづもそろそろ、前進さすねが」


新聞記者に感想を求められた時を除き、ずっと黙っていた美智子が口を開いた。政彦に、というよりも、自らに語って聞かせているようだった。

 

「警察署の構造なんて知らないけど、たぶん、あの壁なのよね。涼太がハイハイした、立った、歩いた、って良彦さんに報告に行ってた署長室の壁。あそこを何度も、孝則が笑顔で通っていったのよね。私たちが見たこともない、うれしそうな顔だったって、良彦さん言ってた。今日もあそこにいたのかもね。たぶん笑っていたよね。『母ちゃん、何ずっと暗い顔してんのや』って言われちゃうかもね」

 

                   ♢


翌日、美智子は庭にある物置に箱を二つ、収めた。自分と政彦の白衣と菅笠などが入っている。

 

お遍路はしばらく、お休みすることにした。遍路道はあと半分、残っている。孝則に「中途半端は良くない」なんて言われそうだから、心の整理が付いたら、また出掛けるかもしれない。そのあたりは深く考えず、行きたくなったら行くことにした。とりあえず、義務感で巡るのはもうやめた。

 

「さて、と」

 

 美智子が腰を上げ、母屋に向かうと電話が鳴った。今日は朝から引っ切りなしだ。また、どこかからの取材依頼だろう。孝則はまだまだ、親に楽をさせてくれそうもない。


(続)

 

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(27)「無駄の積み重ね」~江藤美智子の遍路道

 

 木工所に足を踏み入れ、電灯のスイッチを押す。午前5時半。まだ外は暗い。この頃は朝晩が冷え込むようになってきた。政彦が吐く息が白く見える。

 

 東北でも、どちらかと言えば山間部寄りのK市は寒冷な気候だ。近在の農家ではそろそろ、渋柿をもいで焼酎に漬け、干し柿が作られる時期だ。完成に近づけば黒っぽく染まる干し柿も、干した当初はまだ果肉の色を保っていて、政彦は家々の軒先が一斉にオレンジ色のカーテンを吊るしたようになるこの時期が好きだった。

 

 「オレンジ色のカーテン」は政彦の言葉ではない。まだ幼かった頃、一人息子の孝則が口にした。目に映るシーンを独特の言い回しで切り取る、子どもならではの名文句。我が子ながら、うまい表現だと膝を打ったことを覚えている。

 

 「ははっ」。楽しかった時代が昨日のことのように蘇ってきて、思わず笑みがこぼれる。木工所にいると、いつもそうだ。何せ孝則は物心つく前から、自宅の隣にあるこの場所に入り浸っていた。思春期こそは足が遠のいたが、大学を終えると、またここに戻ってきた。今度は自分の居場所として。木工職人として。

 

 作業台も政彦の隣にもう一台置いてある。警察官を志して以降、使われなくなったものの、今では遺品となってしまったこの台を、政彦は毎朝、水拭きしてから仕事にとりかかってきた。今、もう一方の政彦の作業台には、美智子がお遍路に出掛けて以降に丹精込めた木製プレートが置かれていた。

 

 欅の板をいったん磨き上げ、ノミで彫る。文字の形に彫りぬいたら、黒いインクを塗って墨書したように浮かせる。最後に柿渋色に塗装して、完成となる。言うは簡単だが、かんな掛けもノミ使いも、刷毛だって思い描いた通りに動かすのには熟練の手技が要る。18歳から重ねた年季が、老職工にそこいらの細工物とは趣を異にする工芸品を生み出させた。

 

 彫る文字は最前から決めていた。孝則が巡査を拝命し、尊敬する上司からいただいた言葉だ。

 

 伯父の良彦同様、生活安全部畑を志向した孝則だが、新米が最初から希望通りの部署に配属されるはずなどない。I警察署の地域課に属して交番に詰め、まずは警察官としての実務を仕込まれた。酔っ払いの身の上相談から近所の悪ガキの世話、地域の高齢者の話し相手。市井の中にいることこそ、「お巡りさん」の姿こそ、警察官本来の在り方だと叩き込まれた。

 

 法を順守し、悪を裁くーー。尻の青い青年の、そんな理想は吹き飛んだことだろう。最も辛いのは犬猫探しだと言った。今や人間以上に「家族扱い」される犬猫は、特に話し相手のいない高齢者にとって掛け替えのない存在なのだが、肉体的な衰えや物忘れが増える年代とあってつなぎ忘れ、逃げ出すことが日常的にあった。

 

 犬猫愛を滾々と聞かされ、似たような動物の通報があるたびに追いかける。人間よりも俊敏で、大きさからして物陰に隠れることもできるため、ほとんどが空振りに終わる。まれにヒットすることもあるが、一度などは防波堤の上を歩いていたという通報があり、猛ダッシュの末に飛びついたまでは良かったが、一人と一匹は勢い余ってそのまま海にダイブ。帰路のパトカーが塩水で濡れるという顛末が付いた。

 

 「犬猫捜査」に腐り始めた孝則を諭したのが、当時の上司だった。奉職以来、一貫して地域畑だという警部補は、孝則を官舎の自室に招いては語って聞かせたという。

 

 「江藤、無駄な仕事なんて、この世にねんだど。仕事ってのは無駄の積み重ねだ。動物の捜索だっておめ、靴底擦り減らしゃ地域に詳しくなるし、人脈も広がる。んだべ? ものは考えようだっちゃ。すべては前進なんだ」

 

 苦労知らずで大学まで進み、民間の禄を食んだとはいっても実家の家業という世間知らずの若僧には、いたく響いたらしい。「無駄の積み重ね」「すべては前進」。一度ならず、帰省のたびに心酔した様子で語ってくれた。

 

 「前進」。彫りぬいた言葉は墨痕鮮やかで、政彦にしても会心の出来だった。

 

 「兄貴、いいじゃないか。今の署長もこれはたまげるべど」。出来栄えを確認に来た良彦が肩をたたいた。

 

 明後日、良彦の口添えで、I警察署へこのプレートを寄贈しに行く。お遍路から帰宅したばかりの妻美智子を伴って。事前には何も伝えていない。「前進」の文字を見て、感じてほしい。自分たちのこれまでに、無駄などなかったことを。過去に縛られることなく、少しずつ、前を向こうと。

 

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(続)

 

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(26)やすらぎから苦行へ~江藤美智子の遍路道

 

 お遍路は新鮮だった。

 

 何事も形から入るタイプの美智子は、喜々として白衣や菅笠、金剛杖など一式を二人分買い求めていった。行程を考えてホテルなどの予約を取るのは夫の政彦の分担となり、慣れないインターネットを使って現地の地理を確かめ、歩く速さなどを考えて決めていった。そうした「しなければならない作業」があれば、現実を直視しないでいられた、と言い換えることもできた。

 

 結婚して3年で生まれた孝則。以来、二人は「夫婦」でありつつも、「お父さんとお母さん」だった。ある日突然、自慢の一人息子を失った。30年以上続けてきた日常を、今さら高校で同級生だった頃のように、二人きりに引き戻されても困惑しかなかった。時をほぼ同じくして、嫁の香織、孫の涼太までいなくなったことも、心の穴を大きくした。

 

 二人して、お遍路スタイルで遍路道を行く。東北の片田舎と言って差し支えないK市に生まれ育ち、高校を卒業してそのまま家業の木工所に入り、所帯を持った政彦と美智子。孝則が大学時代に住んだ東京より西は訪れたことさえなく、うどんやミカン、坂本龍馬が頭に浮かぶという程度の知識しかなかったことも、道行きを興味深くした。

 

 I市の住職にもらったパンフレットによると、お遍路には順打ちやら逆打ちなど、いろいろなやり方があるようだが、生来が生真面目な東北人気質がそうさせるのか、二人は一番札所からすべて徒歩で回り始めた。還暦過ぎの肉体は無理もきかないことから、複数回にわたって徐々に巡る「区切り打ち」とした。

 

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 最初のうちこそ、見知らぬ土地での巡礼の旅に心洗われたが、政彦は次第に美智子の言動が気にかかるようになっていった。

 

 あれは第24番札所の室戸山最御先寺だった。高知県に入って最初の霊場で、政彦の記憶通りなら、お遍路を始めて最初に海が間近に見えた札所だった。初めて見る室戸岬。その突端に砕け散る波頭。普段、内陸部のK市に住む政彦にとっては、まるで観光地のように映ったものだったが、美智子は違った。

 

 「白い波しぶきって津波を連想させるから、好きじゃない。海って何度見ても不気味よね。吸い込まれそうな気がするもの」

 

 仏像を拝んでもそうだった。信仰心とはまるで無縁の政彦でも、たおやかで慈愛に満ちた表情に落ち着きを得たものだったが、美智子は「地元のお寺さんで祈っていたら、何か変わっていたかしら」などと繰り返した。孝則の供養はもちろんだが、心の安寧を得るための旅だったはずが、何を見ても、何を聞いても、戻れるはずのない震災前に心が飛んでしまうようだった。

 

 「孝則の元へ行きたい」。美智子は、心のどこかで、そう思ってはいまいか。

 

 もう四半世紀以上前のことになる。

 

 政彦は、まだよちよち歩きの孝則を背負い、近所の雑貨屋に買い物に出掛けた。K市は南国の高知県と違って寒い時期が長い。毎年、山手から吹き降ろす風は身を切るようだったが、初めておぶった我が子のぬくもりが吹き飛ばしてくれた。帰宅すると孝則は背負われたまま寝入っており、政彦の首筋はよだれだらけになっていた。木工作業に使うタオルでよだれを拭い、口では美智子に「参った、参った」とこぼしたが、嫌悪感などあろうはずもなかった。背中はまだ、じんわりと温かかった。たかが買い物一つとっても、忘れられないほどの思い出がある。子を育てるとは、そういうことだろう。

 

 人間は思い出の中に生きるものだ。愛する肉親を失ったならば、なおさらだ。それでも、生きている以上は前に進まなければならない。たつきを得て、食らい、眠り、自らを生かさなければならない。後を追った方がどれだけ楽だろうと、眠れない夜もあったが、そうなれば誰が孝則の墓を守るのか。勇敢にも職に殉じ、若くして逝った息子の墓が雑草に覆われ、苔むすなど、それこそ耐えられない。自分たちもいずれ孝則の元に旅立つのだとしても、せめて、それまではーー。

 

 この夏、美智子が5度目の区切り打ちの相談を持ち掛けてきたが、政彦はクリスマス商戦への対応を理由に断った。木工所を切り盛りし、自分たちも食べていかなければならないのだと暗に伝えたかったが、美智子がいない間に仕上げたい物もあった。

 

 「それじゃ、お父さん。私、行ってくるわね。夏の間にいただいた温麺が、まだいっぱい残っているから、できれば茹でて食べてね」。美智子は10月、再び高知県へと向かった。苦しそうな顔に見えた。おそらく義務のように感じているのだろう。あれではもう、心の穴を埋めるやすらぎではなく、苦行だ。

 

 美智子の姿が見えなくなると、政彦は受話器を上げた。「ああ、んだ。もう、いぐらもしねえで出来上がるわ。ほしたら、頼むな」。弟の義彦に念押しの電話を掛けると、政彦は作業台に向かった。

 

(続)

 

 

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(25)N市の寺院跡にて~江藤美智子の遍路道

 

合掌礼拝一礼し、山門をくぐる。四国遍路第36番札所、独鈷山青龍寺。美智子は、うっそうと茂る木々を見やりながら、なるほど、これこそが霊場だと感じ入った。お大師さまが創建なさった名刹だという縁起にも納得する。

 

祈願を終え、納経帳に墨書をいただいて青龍寺を後にする。近くでは青く光り輝く雄大な太平洋を目の当たりにすることもできた。観光目的のお遍路さんならば感動するところだろうが、同じ太平洋に我が子を奪われた美智子にすれば、どうしてこんなにきれいな海が、と思わざるを得なかった。

 

ご本尊にも考えさせられた。青龍寺の波切不動明王像は、お大師さまが入唐の際、暴風雨を鎮めるために現れたと伝えられ、航海の安全や豊漁、世間の荒波をも鎮めてくれると信仰されているというのだが、暴風雨を津波と読み替えて「もし、仮に」と思ってしまう自分がいた。

 

 どうかしている――。美智子は首を振った。

 

高知県内も残すところ、あと三つとなった。体力になど全く自信のない還暦過ぎのおばあちゃんが、よくぞここまで続いたものだ。そもそも、木工所と家庭、子育てに追われて夢中で生きてきて、宗教や信仰などとは無縁だった。そんな美智子が2県目の遍路を終えようとしているのは、大津波で突然、命を落とした一人息子の存在が多分に影響していた。ふとした折りに孝則を重ね合わせてしまうのは、致し方ないことと言えた。

 

お遍路の旅に出ることにしたのは、ある寺の住職の影響だった。

 

あれは孝則の死から半年ほど経った頃だ。孝則の妻香織が実家に帰ると言いだした。夫の政彦と二人、孫の涼太もいるのだからと思いとどまるように諭したが、受け入れてもらえなかった。「涼太がいるからこそ、です」。おそらく原発事故の影響を言うのだろう、頑なな態度はあたかも強固な岩を思わせた。

 

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孝則の勤務先と官舎があるI市の斎場は、大地震の影響で構造に問題が見つかったとやらで、しばらく使えなくなった。近隣では、I市の北隣のN市の斎場が復旧を果たしていたので、そちらで荼毘に付した。香織はその他の諸々の手続きを終えると、わずかに分骨した孝則と、涼太を抱き、実家に戻っていった。

 

「彼は江藤のお墓に入れてあげてください。私の旧姓のお墓では気まずいでしょうから」

 

香織がそう言い残したので、政彦と美智子はN市沿岸の寺に向かった。K市にある菩提寺は無住となって久しい。最後の住職と親しかったとかで、檀家に困り事があればN市のその寺が差配してくれていた。夫を手元に置いて供養したいという香織の気持ちは痛いほど分かったが、分骨は故人の魂が引き裂かれて縁起が悪いなどとも聞く。どうしたらいいものか、お伺いを立てたかった。

 

「49日が過ぎれば分骨しても問題はないですよ。K市の墓に埋葬して構いません」。寺が津波で流失したといい、ジャージ姿で寺の遺構や遺物を探していたご住職が、その際は自身が読経に伺うと言ってくれた。政彦と美智子は跡形もなくなった寺院跡に驚きを隠せなかったものの、ホッと胸をなで下ろした。

 

表情を察したのか、ご住職がスコップを立てかけ、話を続けた。

 

「何もないでしょう。地震には耐えたんですがね、津波に全部持っていかれてしまって。建物だけなら良かったんですが、私の子どもまでね…」。だから、お気持ちはよく分かる、突然の死を受け入れられる人間などいない、それが我が子ならば、なおさらだ、と語った。

 

N市でも1000人近い住民が犠牲になった。そのうち、いわゆる檀家は250人ほど。心の内がどうしても晴れないという方には勧めているのだと言って、ご住職は1枚のパンフレットを差し出した。同じように悩みをぶつけてくる被災者が多いのだろう、ジャージのポケットに入れていたパンフレットは、くしゃくしゃだった。

 

「四国八十八箇所霊場遍路道」。表題に、そう書いてあった。我が子の死と、その血を継ぐ孫との別れ。何かにすがりつかなければ倒れてしまいそうだった美智子の心に、ほんの少しだけ明かりが灯るのが分かった。

 

(続)

 

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