あの日を境に

巨大災害によって人生が一変した人々の群像劇

(19)施工企業あいさつ~福田禎一の街づくり

 

 「したって、柿沼の話も理屈は通ってっぺよ」

 

 福田の話を聞き、田村がいの一番に市長の見解に理解を示した。心情的には川底や漁港を浚渫するべきだとは思うが、I市にその権限はないのだから、と。これに菅野が異を唱える。

 

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 「おめは被災者の気持ち分がんねのが。がれきば見だぐねって気持ちば」。これに大友も賛同し、「田村はいづもだ。予算だ、制度だってばりだおん」と言い募る。福田建設の最古参で、設立メンバーの3人。気性が荒い現場上がりの上、今日のような月に一度の「古株飲み」ではアルコールという援軍もあり、火種さえあればすぐ口論になる。見かねて福田が割って入った。

 

 「とにかく、防災センターは取りさ行く。あれは俺らでやんねばなんね。そいづど川底の件は別だ。柿沼は事務屋よ。これ以上、言ったって語ったって分がんねえべ。やんだって語る市民さいんだば、なんとかすてやりでんだけんどなあ」

 

 「んだば、おめ、やったらいっちゃ」。菅野がそう応じると、大友と田村もうなずく。珍しく3人の意見が合ったが、福田は真意を測りかねた。社長業に忙殺され、現場を離れてもう二十年近い。今さら最新重機を操って川底を浚渫するなどおぼつかないし、進行監理の方法もうろ覚えで、現場監督役も務まりそうにない。

 

 呆けたような福田の顔を眺め、3人は意地の悪そうな表情を浮かべた。この3人がこうした態度を取る時はおおむね、悪だくみをしている。

 

 「何も社長様に現場さ出ろだなんて言わねでば。おめが出るのは選挙だど。民主主義だべ? 意見が合わねんだば、おめがトップさ立づしかね」。何を言い出すのかと苦笑してみせると、3人は一様に真剣な表情で迫ってきた。田村が代表するかのように口を開いた。

 

 「川底の件だけじゃね。おめよりも現場さ近い分だけ、分がるこどもあんだど。このままだど、忘れられっとわ。あの地震も、仲間さいっぺ死んだ津波も。君代さんのこども、隼人のこどもだ。福田! 遺族がトップさ立って、国だの県だのさモノ言わねばなんねのや!」

 

 田村は、あの津波で妻を亡くした。三白眼には鬼気迫るものがあった。

 

 田村が続ける。「何年、建設会社の総務担当役員ばやってっと思ってんのや。予算と制度だげでねえど。このI市の選挙事情、俺以上に詳しい人間なんていね。神輿は作ってやる。おめは黙って神輿さ乗って、受がったらやりてえように吠えろ」。ただし、田村がゴーサインを出すまで柿沼に追従するふりをしておけ、という。

 

 これも出馬要請と言うのだろうか。社長応接室に広げられた裂きイカとチューハイの空き缶を眺めつつ、福田が「しかし、会社が…」と口ごもると、一番のにぎやかしの菅野が後を受けた。

 

 「心配すんな。何も命ば取られるわげでね。まんず何かあったってやあ、最初さ戻るだげだべ。こごさいる4人、なんのかんの語ったってや、カネも何もながったげんと、毎日草むしりと雪かぎばっかりだったげんとも、今よりずっと笑ってたべっちゃ」

 

 菅野も、福田の肩を揺すってきた大友も、みんな誰かしら家族を失っていた。ふいに涙がこぼれ落ち、止まらなくなった。福田はそのまま、男泣きに泣いた。古株飲みは珍しく、ケンカのないままお開きとなった。

 

 3か月後、福田建設は防災センター整備事業を落札した。会社総がかりで1年2か月の工期を掛け、集団移転団地の近くに三角屋根が印象的な木造平屋の建屋を完成させた。落成式で柿沼はトップバッターとしてスピーチに立ち、復興事業の象徴が自分の手で形を成したことを誇示した。

 

 福田の施工企業代表あいさつはラストだった。津波の可能性が取り沙汰されたらとにかく逃げるーー。そのシンボルを完工できたことで、君代のことが浮かんで不覚にも涙を見せてしまったが、田村演出の見せ場はその後だった。

 

 「ここから先も、このI市で、地図に残る仕事をしていきたいと思います。そして、母ちゃんに恥じない安全な街をつくってみせます。福田建設としてではなく、福田禎一として。来るI市長選挙に立候補させていただくことをここに宣言します」

 

 脇に控えていた田村、大友、菅野の悪友3人が拍手をすると、つられて万雷の拍手が沸いた。市長選は半年後に迫っていたが、県内指折りの建設会社代表で、篤志家でもある福田の知名度は、役所上がりの柿沼など及びもつかない。センター落成を土産話に、1か月後の市議会で再選出馬を表明する構想を描いていた柿沼は、しきりに足を踏み鳴らし、あからさまな不快感を示した。

 

 「福田建設社長 福田氏、I市長選出馬を表明」。翌日の東北新聞に、異例の施工企業あいさつが小さく載った。

 

(続)

 

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(18)為政者の在り方~福田禎一の街づくり


福田は、I市長の柿沼源次郎と相対していた。

 

 市役所5階の市長応接室。政策企画課の課長補佐が津波を目撃した場所の、真下に当たる部屋だ。何やら検討も付かないが、「話があるから時間を取ってほしい」と呼び出された。

 

あれから5年が過ぎていた。あの年はとにかく、がむしゃらに働いた。大地震と大津波があったのが3月11日。それから5カ月間、ちょうど新盆のころまで1日も休まず復旧事業の最前線に立った。

 

結局、君代だけでなく、隼人も遺体で見つかった。農業用水路に転落したバスはやはり、うみどり福祉会の車両で、中にいた19人全員が溺死だった。母と長男、理事長を務める障害者就労支援施設の通所者全員の死を一身に受け止めることとなった。I警察署長だった江藤が言うとおり、現実はかくも冷徹だった。

 

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どうして津波警報が出ているのに、バスを海岸方向に向かわせたのか――。通所者と運転手だった従業員の遺族からは、痛烈に面罵された。「建設会社と二足のわらじを履いているからだ」「実態は母親に任せきりだったそうじゃないか」。施設立ち上げをあれほど懇願した市民まで、福田を口汚くののしった。その末に、隼人を除く死者18人のうち11人の遺族が、うみどり福祉会と理事長である福田を被告とし、S地裁に損害賠償請求訴訟を提起する事態に発展した。


福田自身は泰然としていた。我が子を失った心の痛みや、どこかにぶつけるしかない怒りは自分も分かる。遺族には心からのお悔やみの気持ちがあったし、訴訟に加わらなかった遺族とは和解した。実質的に隼人のために設立した施設だったこともあり、うみどり福祉会も閉鎖した。それでも、君代が全身全霊を打ち込み、最後まで守り抜こうとした福祉会を被告としたことは、とうてい受け入れられなかった。

 

訴訟は基本的に代理人の弁護士に任せ、福田は建設会社のトップとして新盆以降も復旧に尽力し続けた。「あんだはこの街を造ってんだがら。早ぐ会社さ戻りんさい」。大地震後、そう言って福田を送り出した君代の顔が忘れられなくて、弱音を吐くことだけはしたくなかった。

 

5年たち、「多重防御の街」を復興方針に掲げたI市の街づくりは、ある程度めどが付きつつあった。沿岸部にあった集落群は内陸部に集団移転させた。海岸線には長大な堤防を築き、流失した防風林も植樹を続けていた。藩制時代から続く堀は浚渫し、のり面を舗装。さらに内陸側に旧来より路面を5メートルかさ上げした市道を敷設した。集団移転先を何重にも固めた布陣と言えた。


それら復旧・復興事業の進捗をひとしきり語り合ったところで、柿沼が応接テーブルの上に起案書を滑らせてきた。「(仮称)東部地区防災センター整備事業」とあった。起案者はあの政策企画課の課長補佐、現在は課長に昇進した彼になっていた。

 

「逃げろ、逃げろって叫んでもっしゃ、結局は家さとどまった人が多がったわげだ。あん時。んだもんたから、こごさ逃げるんだっていうランドマークでもあり、普段は避難訓練や防災イベントにも使える、津波は襲ってくるものなんだっつう意識付けのためのハコば、こさえてえのっしゃ」

 

福田にとっても否やはなかった。自宅や福祉会を守ろうと残った君代や、大地を覆うほどの津波など来ないだろうと思い込んだとみられる運転手のような犠牲者を、もう2度と出したくはなかった。

 

公共事業である以上、もちろん入札は行われる。政治家でもある市長は入札管理に介入できず、副市長が担っている。「天の声」など聞けるはずもないが、この工事だけは何が何でも取りに行こうと決めた。福田にはあの日以来、君代に恥ずかしくない街をつくろうと期してきた。

 

首肯するついでと言っては何だが、福田はこの際、このところ気になっていることをぶつけてみようと思った。漁港の底や、漁港に流れ込む川底に残されたままのがれきのことだ。

 

 一口にがれきと言うが、元は市民の住宅だ。先日も日下さんという、北隣のN市の山の上に宅地を買った沿岸部出身の若夫婦と会ったが、目にするだけで当時を思い出すとして今でも海に近づけない市民がいるのだ。

 

「そいづはでぎね。オラほうでねえもの。港や川ってのは国や県の管轄だって、あんだだって知ってっぺしゃ」

 

市民感情に思いを巡らせるのが為政者ではないのか。管轄が違うならば、要望という手だってあるだろう。それでなくとも時間の経過とともに、特に国は予算付けに冷淡になりつつあった。市民の思いを代弁するのが市長だろう――。役所上がりの政治家にありがちな柿沼の事務的な発言に、福田は次第に不信感を募らせるようになっていった。

 

(続)

 

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(17)警察署長の慟哭~福田禎一の街づくり


「うみどり福祉会には、ご母堂とご子息もいらっしゃるとか。ご無事をお祈り申し上げます」。江藤が続けた。

 

「まだ分からんじゃないか!だいたい、母ちゃんにはさっき会った!バスには乗っとらんはずだ!」

 

福田は自分でも驚くほどの大音声で叫んだ。20以上前にバブル経済が弾け、不動産投資のツケがたたって会社が傾きかけた時でさえ顔色を変えなかった男が、身内に不幸の可能性が指摘されると我を失った。

 

「最初に不確かな情報だと申し上げたはずです。とはいえ、知り得た情報を、特に人の生き死にに関わることを、席を同じくする人間に秘すことは私にはできない」。たたき上げて警視正まで上り詰めた人間は、努めて冷静だった。

 

江藤はまるで独り言のようにつぶやいた。「現実はいつだって冷徹です。こちらの想像を越えていく」。緊急時にこのような対策本部に詰める人間――端的に言えば人の上に立つ人間は、どのような事態に遭遇しても動揺してはいけないのだと、福田はあらためて肝に銘じた。

 

「会社って言葉だど、よそよそすぐ聞ごえっけどな、法人て言い換えるとどんだ?会社っても結局は人なんだど。一番上の人間がワタワタしちゃなんね」。ふいに、若い時分に耳にした親方の説教がよみがえってきた。

 

思慮を欠いた発言への謝罪と、気遣いへの感謝を口にすると、江藤は一笑に付した。「なに、福田さんの所のことが人ごとだとは思えませんでね」。I警察署でも、地震後に沿岸部へ避難誘導に出動した署員6人と連絡が取れない状態なのだという。

 

そのうちの1人は甥っ子で、まだ34歳。両親を心配して家業の木工所を手伝っていたが、自分に似たのか正義感が強く、一念発起して30歳で奉職したのだと、江藤はぽつりぽつり話してくれた。

 

「孝則っていうんですが、おととし、子どもが生まれたばかりでしてね。市内の官舎に嫁さんと3人暮らしでした。髪の毛が増えた、寝返りができた、お座りができた、立った、しゃべったって、いちいち署長室に報告に来ましてね。何度も執務中だと叱ったものでした。孝則の嫁さんにも兄貴夫婦にも、私、何て…。孝則のことは生まれた時から見てきたんです。警察に入ってからはそれこそ、兄貴以上に。人の死にはずいぶんと向き合ってきましたが、身内のこととなると、こんなにもつらい…」

 

激高した福田は我が身を見る思いだったのだろう。怒声が飛び交う会議室の片隅で心の内を絞り出し、江藤はうつむいて口を覆った。冷静さの裏には激情が渦巻いていた。

 

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その晩、会議室に詰めた面々はめいめい、床や廊下などで横になった。


津波がいつ押し寄せるか分からず、暗くなったこともあって、停電で真の闇に包まれた沿岸部には近づけずにいた。その間も救助要請や国・県からの連絡が引っ切りなしに続いたため、交代で仮眠を取りつつ夜明けに備えることになった。もっとも、ほとんどの人間が家族や会社のこと、もっと言えば、これからこの土地はどうなってしまうのだろうと考えて、眠るどころではなかった。


夜が明けると、深刻な実態が次々と浮かび上がってきた。沿岸部は各地が水没したままで、ところどころに遺体が見られた。数人などというレベルではない。「死者は数百人単位に上るだろう」との江藤の報告を聞いて、福田は思わず頭を抱えた。


そこに携帯が鳴った。マナーモードにしていなかったことを会議室のメンバーにわびつつ、廊下に出て通話ボタンを押すと妻の幸の金切り声が響いた。


「あんた、お義母さんが!」

 

一夜明け、市役所近くにある福田建設に残っていた幸は、沿岸部の自宅の様子を見に行った。自宅は一階の屋根付近まで水が来た跡があったが、びくともしていなかった。ただ、母の君代が自宅南側にある農園でビニールハウスの骨組みにもたれかかるようにして倒れていたという。

 

取るものもとりあえず、会社にあった現場巡回用のRV車を飛ばして駆け付けたが、母は息をしていなかった。一晩、水に漬かっていたらしく、青白い顔をしていた。それなのに、まるで微笑んでいるような穏やかな表情をしていた。

 

(続)

 

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(16)災害対策本部~福田禎一の街づくり


「津波、S病院くらいまで来てます!」

 

政策企画課の課長補佐が金切り声を上げた。I市役所きっての政策通として鳴らし、おそらく40代のうちに課長に上がるだろうともっぱらの評判だったが、危機対応には向いていないのかもしれない。緊急時にも関わらず、福田はそんなことを考えた。

 

こうした有事に備え、役所というところは、あらかじめマニュアルを定めている。災害の度合いに応じて対策本部やら警戒本部、情報収集室、連絡室などといった部署を立ち上げ、外部機関を集めて情報を一元化。本部長や室長の号令の下、問題に対処する。今回も地震発生後、警察や消防、建設業協会消防団、NTT、電力会社、学校関係者が集まってきていた。

 

福田もI市建設業協会の会長として顔を出した。まだ正式名称は決まっていないが、市長をトップとする対策本部になるのだろう。そう思っていた矢先、6階建ての市役所の東側の窓から海を見ていた課長補佐が巨大な黒い壁を目にし、会議室に駆け込んできたのだった。

 

市役所よりも高層のビルなど、そうはない田舎街だ。平地を呑み込んでいく津波をまざまざと目撃した課長補佐の驚愕は理解できたが、S病院は海岸から6キロは離れている。「あんなところまで水が来たってかぁ…」。前代未聞の事態に、頭が追いつかなかった。

 

国や県、I市など発注者が異なるとはいえ、福田建設は海岸堤防や藩制時代の堀の護岸、県道・市道敷設と市内の公共工事の多くを手掛けてきた。S病院の建屋もそうだ。市内の建造物の位置はおおむね頭に入っていただけに、信じがたい思いもぬぐえなかった。

 

突如、消防署長の携帯が鳴った。その後も断続的に鳴り続け、寄せ波で家屋が浮き上がった住民からの救助要請が相次いでいることを署員が伝えてきた。NTTや電力会社も現場からの情報を基に、不通や停電の知らせをホワイトボードに書き込んでいく。知事からの災害出動要請で自衛隊が駆け付けた頃には、会議室は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 

まだ警察署長が声を発しないので誰も口に出さなかったが、最悪の事態を想定せずにはいられなかった。6キロも内陸まで津波が入り込み、家屋が流され、電話も電気も使えないのだ。市民の死―。おそらく不可避に違いないだろうが、認めたくなくて、情報連絡に追われることで考えないようにしていた。

 

「本署より入電。本日16時半すぎ、沿岸部のT小学校付近で農業用水路に突っ込んで横転したバスを巡回中の署員が発見。津波が内部まで浸入し、数十人の死者が出ている模様」

 

100人近い人間が出入りしているというのに、喧噪が一気に収まり、会議室は静寂に包まれた。誰もが一時、呆然とした表情を浮かべて声の主―警察署長を見詰めた。「ほかにも沿岸部で複数の死者がいるとみられ、現在、詳細を調査中」。警察署長が続けた重々しい言葉が再生ボタンになったかのように、入室者が一斉に動きだした。


警察署長が福田に近づいてきた。確か江藤と言ったはずだ。去年の4月に異動してきた生活安全畑の警察官で、転任のあいさつでゴルフが趣味だと話していた覚えがある。まだ調査中の事案だと前置きした上で、その江藤が部下が走り書きしたメモに視線を落とした。

 

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「先ほどの横転したバスですが、車体に、うみどり福祉会という塗装が見られるとのことです。第二波、第三波の恐れがあるため、現時点で内部を確認することができず、同会関係者が搭乗しているかどうかは不明です」

 

スッと胃の辺りが凍りつくような感じがした。江藤の言葉は一人息子の死を意味していた。

 

(続)

 

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(15)いつもの座席~福田禎一の街づくり

 

福田の母君代が最後まで生きようともがいていた頃、長男隼人はうみどり福祉会の従業員が運転するマイクロバスの中にいた。

 

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I市中心部のスーパーで被災した。経営者の肝いりで、福祉会で育てた農作物を扱ってくれるありがたい存在。「作物が取れない冬場も、お付き合いを欠かしてはいけない」。そうした君代の考えの下、段ボールの片付けなどバックヤード作業を手伝っていたところ、下から突き上げるような揺れに襲われた。

 

自分が2センチくらい浮き上がったのではないかと驚くほどの縦揺れの後、激しい横揺れに見舞われた。隼人は、スーパーの敷地の地面と、隣接する市道の路面が互い違いに横ずれするのを目にした。まるで幼い頃に歩く練習をしたスキーの板のように、地面同士が交互に擦れるように動く。次第に立っていられなくなり、隼人はバックヤードに腹ばいになって耐えた。

 

時間にして数分ほどだったと思うが、知覚過敏の症状がある隼人はパニックに陥る寸前となった。大人になってからは幼少期ほどではなくなったにせよ、今でも常にない状態に置かれると、そわそわして嫌な気分になる。いつもの時間、いつもの場所で、同じような行動を取ることで心の平静を保ってきた隼人にとって、尋常でない揺れはさながら化け物との遭遇に近かった。

 

取り乱し、いずこかへ走り去ってしまいそうになるところで、福祉会の従業員がバスに乗るよう叫んだ。揺れが収まったから、後片付けに追われるスーパーの邪魔をしないよう、電話で指示を仰いだ君代の発案で施設に戻ることにしたという。「隼人の席はここね」。君代が決めた、いつものバスの、いつもの席が気持ちを落ち着かせてくれた。

 

バスは施設に向け、I市を東西に貫く県道を東の方向―海の方角へと走った。次第に反対方向の車線が混んできた。どうやら海手から逃れてきたようだった。「気象庁は県内に津波警報を発令しました」。運転席のラジオが大きな津波が押し寄せる可能性があると伝えていた。

 

警報を耳にしても、運転手に迷った様子はなかった。うみどり福祉会は海から1キロは離れている。これまでにも津波警報が出たことはあるが、漁港で数十センチほど水かさが増した程度で済んできた。当時、誰の心の中にもあった思い込みが、君代の指示を危ぶむ気にさえさせなかった。

 

ふいに、バスの前面に黒い点というか、横線が見えた。一瞬で見えなくなったと思ったら、1キロほど先にある藩制時代に築かれた堀ののり面から真っ黒な壁が一気に姿を現した。7、8メートルはあろうかという巨大な壁が徐々に迫ってくる。田園地帯を越え、住宅街に入り込むと次々に家屋を呑み込み、街路樹や庭木もなぎ倒し、ずんずん押し寄せてきた。

 

運転手は慌ててハンドルを切り、県道をUターンしようとした。こんな時、人数は運べるものの図体がでかいバスは、やっかい物でしかない。1回では曲がりきれず、ハンドル操作を続けているうちに後部から強い衝撃が襲ってきた。

 

「は、や、と、の、せ、き。こ、こ、は、や、と、の、せ、き」

 

同じ文句をつぶやきながら体を前後に揺すっていた隼人の中で、何かが切れる音がした。途端に抑えが効かなくなり、叫び声を上げた。立ち上がり、運転手の元に駆け寄って、飛び付いた。恐怖感を和らげるために隼人と君代が繰り返してきた儀式が、それ以上の運転操作を不能にした。

 

施設通所者と従業員の計19人が乗ったバスは第一波の衝撃で横倒しになり、県道脇の農業用水路にはまったまま動かなくなった。その上を、墨汁のような寄せ波と引き波が二度、三度と打ち寄せた。

 

(続)

 

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(14)水没する街~福田禎一の街づくり

 

 君代は慌てて玄関に駆け寄り、水没する前に外に出ようとしたが、外開きのドアは水圧のせいでピクリとも動かなかった。窓も同様に少しもスライドせず、無理に動かすとガラスが壊れる恐れもあった。

 

 この期に及んで窓の心配も何もないものだったが、極貧生活から這い上がった息子の努力の象徴を、自分が壊すわけにはいかなかった。

 

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 君代は二階に駆け上がった。窓の外は辺り一面、海に変わっていた。二階建てが平屋に、平屋は棟だけを残して水没していた。ちょうど地面が一階分沈んだような情景に声を失ったが、地獄絵図はここからだった。

 

 目の前を家が流れていく。寄せ波が浮き上がらせた住宅を、引き波が押し流していく構図だ。君代同様に二階部分へ逃れた住民が、恐怖を顔に張り付かせたまま海へと引き込まれていった。元は村だった田舎街のこと、多くは顔見知りで、窓辺に君代を見つけて助けを求めるような格好で流されていく人もいた。

 

 君代は呆然とするばかりで、救助など及びもつかなかった。海という名の悪魔がいるのなら、引き込んだ人間を食らっているように思えた。津波は第一波だけで終わるものではない。海沿いに住む身としてそのくらいの知識はあったので、今は波に耐えているこの家も第二波、三波に対してどれほど抵抗できるかは知れなかった。

 

 隼人を、子どもたちを守らなければならない。

 

 ふいに、うみどり福祉会の実務の担い手としての責任感が顔をのぞかせた。自分が死んだら、あの子たちは寄る辺を失う。障害を持つ子たちがようやく見つけたやりがいを、達成感を、働いて賃金を得た時の笑顔を、なくしたくなかった。

 

 「ば、あ、ち、や、ん、に、な、に、か」。さして多くもない工賃を初めて手にした後、隼人が口伝えにそう言ってきた。プレゼントをくれると言う。その言葉だけで、これまでの苦労が何もかも報われた気がして、声にならなかった。寄る辺をなくすのは、君代とて同じだった。

 

 意を決し、二階の窓を開けた。途端にゴーっという音が耳に入った。引き波が人や住宅、車、木々を海へと引きずり込んでいく音だった。「助けてー」。住宅ごと流された人の声も混じる。

 

 近くにあった椅子を引き寄せ、座面に足を乗せて窓枠を越える。そのまま一階の屋根を壁伝いに歩き、雨どいまで行こうと試みた。雨どいまで行ければ、二階の屋根に這い上がれると考えた。その先、どうするかは思考の外だった。

 

 誤算があったとすれば、靴を履いていなかったことだった。

 

 地震の後はガラスなどが散乱していることもあり、住宅内の確認は靴のまま行う方が安全だ。ただ、苦労の掛け通しだった息子が建ててくれた努力の結晶を、まさに土足で汚すような気がした。福祉会で履くスニーカーを脱ぎ、そのまま二階に逃れたため、靴下のままで津波で濡れた屋根を歩くことになった。

 

 雨どいに手がかかりそうになった瞬間だった。手先に集中するあまり、足元の確認がおろそかになっていたのだろう、雪止め金具を踏んでしまった。折からの寒さでかじかんだ足に激痛が走り、壁から手を放して足を触ろうとかがんだ。その刹那、君代の体は壁と反対方向に転げ、墨汁のような色の水に吸い込まれた。

 

 生まれたばかりの福田が、顔を真っ赤にして泣いている。父親の葬式の意味が分からず、棺の中の顔を触る小学生くらいの福田も見えた。腹を空かせ、近所の畑の大根をジッと見つめる姿もあった。ふいに、学生服姿の福田が腰のベルトに手ぬぐいを下げ、鶴嘴を手に出掛けていく光景に移った。続いてランニングシャツにヘルメット姿の男たちと肩を組んで笑う福田。幼い隼人を抱く幸と、笑みを浮かべて寄り添う福田はまだ若い。

 

 走馬灯って、こいなんだべかー。あいやぁ、お父ちゃん、随分待だすたなやぁ。オラもそっちさ行ぐみでぇだ。禎一はもう、大丈夫だ。女学生仲間にゃ、トンビが鷹生んだみでだって言われでる。今じゃ近在に並ぶ者もいねほどの社長様だ。あんなにちぃっこかったワラスが、えれぇでっかぐなってわぁ。ほんでも、あれから貧乏になっちまったんで、苦労に苦労ば重ねで。んだども最後は立派な家までこしぇでけだんだ。オラ、禎一のおかげで、えれぇ幸せだったでば。んだ、隼人って孫までいんだでば。こないだ、なけなすのカネでスカーフさ買ってけだんだ。赤くって綺麗でなやあ。んだがら、いっぺ話っこあんだでば。

 

 その思考を最後に、君代の意識は途切れた。

 

(続)

 

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(13)気密性の弊害~福田禎一の街づくり

 

 福田の自宅は、障害者就労支援施設「うみどり福祉会」の敷地北側に建つ。施設は、ありていに言えば長男隼人のために設立したようなものだっただけに、隼人と、実質的な運営者の母君代が通いやすいようにという配慮だった。

 

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 木造一部二階の、典型的な多世代向け住宅。ただ、海沿いの田舎街だけに土地代が安いことから住宅には金を掛けた。例えば、一般的な住宅の廊下は90センチ幅だが、120センチ幅で普請した。住宅は軒先が壁面より突き出ていればいるほど「お屋敷っぽさ」が出るものだが、これも通常の倍ほどの60センチとした。

 

 福田が何よりこだわったのが気密性だった。住宅の肝は気密性にあると、元から考えていた。

 

 生まれ育った家は寒かった。断熱材などが一般的でなかった時代ということもあって壁面から隙間風が入り込み、破れ障子も体から熱を奪った。極貧と言っていい生活が気密性よりも日々の食事に気を向かせ、住宅に気を遣う余裕などなかった。

 

 長じるにつれて友人宅に遊びに行くようになり、その違いに愕然とする。内外の温度差など感じないで育ってきたが、家の中とはこれほどまでに暖かいものかと建築の重要性を思い知らされた。大工だった父親の影響もあったが、建設業を志した原点と言っていいかもしれない。

 

 そうした生育環境が、初めての自宅造りにも反映された。ペアガラスなど気密性を高めるための工夫を随所に施し、うみどり福祉会の設立から2年後、自慢の邸宅が完成した。海から1キロちょっとというロケーションから海風が強い土地だったが、建設会社の社長というポジションが風はもちろん、海鳴りさえ聞こえない頑丈な造りを可能にした。

 

 これが裏目に出た。

 

 大地震は福田宅も揺さぶったが、堅固な構造はびくともしなかった。とはいえ、家のそばで働く君代は内部の確認に走った。もし、何かがあったら、懸命に働いてこの家を建ててくれた長男に申し訳がない。おそらく巨大地震のせいで社長業が忙しく、自宅を顧みる余裕はなかろうという配慮もあったとみられる。

 

 家の中も無事だった。棚に置いてあった頂き物のウイスキーやらオブジェなどが落下するなどの被害はあったが、構造物の亀裂や破談といった深刻な影響は見られなかった。君代が胸を撫でおろしたところに、福田が顔を出した。

 

 「母ちゃん、大丈夫が」

 

 「何ともね。あんだの会社は道路やら橋やら、この街を造ってんだがら。家さオラ見っがら、早ぐ会社さ戻りんさい。もっと大事なこどばやんねば」

 

 促され、福田が踵を返した十数分後、巨大な黒い水の壁が福田邸に迫った。普段は青く穏やかな海が何百年かに一度の牙をむき出し、自慢の二階家に打ち付けた。現代建築技術の粋を集めた住宅はその大波にも耐え、一階部分が水没しながらも家の中に一滴の水さえ入れなかった。

 

 家の中にいた君代は最初、何が起きたか分からなかった。I市の広報車が何台も巡回し、津波への警戒と避難を呼びかけていたものの、堅牢な家屋がその音を阻んだ。地震被害の確認に集中していたこともあったかもしれない。

 

 「ド、ドーン!バン!」

 

 一段落して君代が落ち着いたところ、東側の壁が爆発でもしたかのように音を立てた。君代が驚いて窓を見やると、半分ほどの高さまで墨汁のような液体に浸されていた。真っ黒な水は見る間に嵩を増し、一階は真夜中のように暗がりに沈んだ。

 

 生死を分かつカウントダウンが始まった。

 

(続)

 

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(12)農福連携~福田禎一の街づくり

 

 福田は正直、長男隼人の世話が苦痛だった。

 

 赤ん坊の時はまだ良かった。腹が減ったといっては泣く、おしめが濡れたといっては喚く、夜泣きする。乳児ならば当たり前だ。福田もそう思えた。

 

 それが3歳になっても変わらず続いた。言葉も、言語らしい言語にならず、さすがに医者を頼った。自閉症と診断された。

 

 歩くことは普通にできたが、とにかく落ち着いていることができない。近所の犬が吠えると暴れる。車が脇を通り抜けると吠える。運動会の日の朝、近所の小学校で花火が上がっただけでも部屋で恐慌を来した。

 

 知覚過敏の中でも、特に聴覚過敏という症状らしかった。人よりも感覚が研ぎ澄まされていると言ったらいいのか、光が増幅されて感じられたり、音が大音量で聞こえたりするという。犬は怪物に、車は恐ろしい兵器に、運動会の花火はとんでもない大爆発に思えるようだった。

 

 言葉が不明瞭なため、意思の疎通さえ難しい。隼人が暴れだすと始末に負えなかったが、福田の母君代は隼人に飛びついて抱きしめ、落ち着くまで耳元で何事かささやいてなだめた。隼人が少し穏やかさを取り戻すと、抱きしめたまま体を揺すり、平静になるまでそのままでいた。

 

 君代は隼人と少しでも会話が成立するようにと、口を大きく開けて五十音の形を覚えこませ、「あ、い、う、え、お」と話して見せて指ささせ、「『お』ね。『お』って言いたいのね」などと言っては意思を通わせようとした。そして、それは実現した。

 

 隼人は、ご飯を食べて「おいしい」と伝えたいのだと、君代に教わる日々。福田も、妻の幸も頭が下がった。県南きっての建設会社に成長した福田建設の社長と、経理や総務をこなす社長夫人。家庭と長男を顧みる余裕のない状態に、君代の存在は何にもまして有難かった。

 

 とはいえ、隼人が義務教育の年限を終え、支援学校も出るころになると、そうも言っていられなくなった。

 

 就職だ。

 

 障害を抱える子を持つ親に共通する悩みと言っていい。自分たちは年老いていく。いつまでも子の面倒を見ていられる訳ではない。障害がある我が子が自立して生きていける環境は、親たちのたっての願いだった。

 

 「福田さん、何とがなんねべが」

 

 福田の元には次第に、親たちからそうした相談が寄せられるようになっていった。I市随一の建設会社のトップで、自らも障害児を育てる父。何かしらの軽作業でいい、食べていけるだけの環境をー。親たちの切実な気持ちだった。

 

 福田は2005年、市内に障害者就労支援施設を立ち上げた。自らの出身地に近いI市沿岸部に700坪の土地を買い求め、施設の事務棟と農地、ビニールハウス群を整備。地元の農家を講師に招き、隼人ら知的障害を抱える子たちが農業などで工賃を得られる作業場をこしらえた。今でいう「農福連携」の先駆けだった。

 

 近在の子たち17人が登録し、葉物野菜などを栽培。不定期ながら理解のあるスーパーなどに卸すスキームは市内はもちろん、県内でも評判を呼んだ。「さすがは福田さんだ」。福田建設を一代で築いた手腕に、篤志家の顔が加わることになったが、実態は君代の手柄だった。

 

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 今や従業員数500人、下請け企業も十数社に上る中堅ゼネコンを取り仕切る男が、障害者施設まで実質的に手掛けるのはどだい無理があった。福田は運営法人の理事長という肩書だったが、運営の実際は古希を迎えた君代が担っていた。自閉症の子を成人させた手腕が、いかんなく発揮されていたと言っていい。

 

 「まったく、母ちゃんには敵わねえわ」。福田は苦笑しながらも、やりがいを見出した隼人らを見るにつけ、母の後ろ姿に手を合わさずにいられなかった。

 

 順風満帆に見える福田の人生が暗転したのは、施設立ち上げの6年後だった。

 

 マグニチュード9.0の、あの大揺れ。I市の施設にも高さ7メートルもの大津波が押し寄せ、君代と隼人ら20人が行方不明となった。

 

(続)

 

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(11)立志伝中の男~福田禎一の街づくり

 

「母ちゃんのことを思うと、どうして、も少し早く…これ造んねがったがって…思って…」

 

190センチ近い巨漢が、人目もはばからず泣いた。目の前には100人を超す市民が着座し、男のスピーチに耳を傾けていた。ただ、失笑はもちろん、眉をひそめる向きも、さざめきさえもない。むしろ涙を誘われたようで、ハンカチで目頭を押さえる女性の姿も見られた。

 

男の名は福田禎一。東北地方の地方都市、I市に本社を置く中堅建設会社、福田建設の代表取締役を務める。I市発注の防災センターの落成式に当たり、施工企業の代表として壇上であいさつする途中、7年前の東日本大震災で犠牲になった母の君代を思い出し、感極まった。

 

「よぉす!次ぃ、市長さ出ろ!受がっど!」

 

聴衆から上がった、ヤジともおべんちゃらともつかない掛け声に居並ぶI市幹部は血相を変えたが、当の市長は苦笑いでお茶を濁した。実際、福田が市長選に立候補するのではないかという噂話はまことしやかにささやかれてきたし、出馬をすれば現職に肉薄するだろうことは容易に想像がついた。福田本人はこれまでもきっぱりと転身を否定してきたが、つまりは、それだけの人望がある男だった。

 

I市は県都S市の南約30キロの距離に位置し、人口5万人ほどの田舎町だ。古くは奥州街道の宿場町として栄えたが、近年は凋落著しく、昭和の大合併で海手側と山手側の二つの村と一緒になってできた。とはいえ、地方都市が、同じように疲弊した2村と合併したところで上向くはずもなく、S市のベッドタウンとして人口が減らないだけマシと言われる有り様だった。

 

福田は、そんなI市で立志伝中の人とされる。

 

1962年、まだ10歳にも満たない時に大工だった父親が現場で転落死し、母子家庭で育った。貧窮を極めたが、新聞と牛乳の配達を掛け持ちして君代を支え、中学を出ると父親も世話になっていた人夫出しの元に出入りするようになった。始めのうちこそ一輪車の扱いにもふらつくような状態だったが、偉丈夫と言っても差し支えないほどの体つきが幸いし、3カ月もしないうちに戦力になった。

 

これが、人夫出しに仕事を回していた地元土建屋の親方の目に留まった。時は高度経済成長期。現在は没落の一途をたどるI市も、道路敷設やハコモノ建設などの公共事業が目白押しで、人手はいくらあっても足りなかったが、何事にも反動はある。親方はその先をにらみ、福田に何くれとなく目を掛け、仕事をたたき込んだ。

 

「これから必ず仕事が減る時代が来る。その時のために何でも吸収しておけ。稼いだ金も貯めておけ」。親方は口癖のように福田に言い聞かせた。戦中派として、仕事のない時の悲哀をとことん味わった親方だった。ほどなくしてオイルショックが起き、先見の明のなかった建設労働者たちはそれまでの稼ぎを溶かしてしまった。

 

福耳にえびす顔という、生来の顔立ちも役だったのか、福田はその時点でちょっとした小金を貯めていた。貧乏世帯で育ったがゆえに、遊び方を知らなかったとも言えるが、ともかくも、その金を元手に小さな建設会社を設立。従業員3人ばかりの小所帯ではあったが、夏の草刈りから冬の除雪まで、小さな公共事業も厭わなかったおかげで徐々に信用を勝ち得た。

 

 80年代に入って景気が上向いてくると、福田の元には仕事の依頼が引っ切りなしに舞い込むようになる。十年もすると従業員数は当初の30倍近くに増え、売上高ベースで県内8位の企業体に成長。I市を中心に道路、港湾、橋梁、建設と何でもこなす中堅ゼネコンの体裁を整えていった。

 

 福田はこのころ、私生活も転換しつつあった。82年、世話になった親方の一人娘、幸(さち)と結婚。市内に別居していた君代を呼び寄せ、借家ながらも居を構えた。

 

 子どもも授かった。なかなか恵まれず、7年目にして願い叶ったのだったが、障害を抱えて生まれてきた。隼人と名付けた自閉症の子を誰より愛し、一心に育てたのが君代だった。

 

(続)

 

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(10)幕間~日下洋子のウエディングドレス

 

あ、はい、こんにちはー。こちらこそ、よろしくお願いします。東北新聞の次長さん、なんですかー。何だか、すごい。私、記者さんの名刺なんて初めていただいたもので。うまくしゃべれるかしら。

 

すいません、こんな山の上までおいでいただいて。住宅のほかは何もないでしょう?お医者さんもふもとまで降りないとないから、子どもが熱出したらどうしようって考えて、夫婦でお酒を飲むなんてこともできなくって。

 

ああ、すいません。話が脱線しちゃいましたねー。どうも緊張しちゃって。お忙しいからお時間ないですもんね。失礼しました。

 

それで、なぜウエディングドレスを飾ったか、ですよね。うーん、これだって理由はないですけど、ちゃんとした場所に仕舞いたいという思いは元々あったんです。その思いを福田さん―福田建設の社長さんなんですが、酌み取ってもらったと言いますか。初めて社長さんのところにお邪魔した時、もう設計図に折り込まれていたんですよ。

 

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そりゃもう、びっくりですよね。アパレルのことは多少、勉強しましたけど、建築のことはさっぱりなもので。壁をアクリルガラスにして三角形のショーケースを作るなんて、考えもしませんでしたよ。

 

ウエディングドレスは、やっぱり飾った方が映えますよねえ。見せるために存在するドレスだから。本当に素敵に仕上げてもらったと思っているんです。それに、両親にも見えるだろうから。ほら、あそこの仏壇に遺影があるでしょう。玄関から入った私たちも、両親も、どちらからもよく見えるようにできているんですよー。

 

え?明るいですか?私。たぶん緊張しているから、おしゃべりになっちゃって、そう思われるのかもしれません。取材されるのは初めてというのもありますしね。そもそも、この取材のお話を受けるって決めるまで、両親のことは考えないできたんです。やっぱり、それだけ衝撃的で。脇に置いてきたっていいますか。


それが、お話をいただいてから、この家を建ててからでも1年たってて、ああ、もう、あれから7年にもなるんだって思って。芳乃香、ああ長女なんですけど、今年、小学生になったんです。それだけの時間がたったし、そろそろ、おじいちゃんとおばあちゃんがいない理由もきちんと話さないといけないって考えて。


それから、2人についていろいろ思い出して、考えて。2人のことを記者さんに買いてもらうことで、生きた証しって言いますかねえ、それを残したいって思ったんです。今もう、何もないですから。全部、津波に流されたじゃないですか。あるのは私の家にあったウエディングドレスと、私の結婚式の時に撮った写真、まあ遺影になっちゃいましたけど、それだけですもん。


振り返れば、いつだって必死に生きてきたはずなんですけど。震災後は特に必死で、子育てに追われて、家事もあって、そっちを頑張ることで考えないようにしていたんだと思います。犠牲になったなんて信じられないって思いが消せないんですよね。火葬場にも行ったのに、芳乃香が母の生まれ変わりだって信じ込んだくせに、いつかひょっこり帰ってくるんじゃないかって思ってしまうんです。


でも、区切りを付けることにしました。そういう自分の心に。私が認めないと、子どもたちにきちんと話せませんもんね。東日本大震災っていう地震津波があって、たくさんの人が亡くなって、おじいちゃんとおばあちゃんもそうだったんだって。2人とも一生懸命生きて、私を生んで、育ててくれて、でも最後は悲しいことになっちゃったって。災害はいつ来るか分からないんだから、何があるかなんて誰にも分からないんだから、備えることはもちろん大事だけど、とにかく一生懸命生きなさいって教えようと思うんです。


私も必死に生きますよ。2人の分まで?いやあ、自分の分で精いっぱいですよ。あははは。一生懸命子育てして、夫を支えて、家庭を守って。子どもが大きくなって少し余裕ができたら、また洋服の仕事に携わりたいという気持ちもちょっとあります。それこそ死ぬまで働きますよー。住宅ローンもありますからねー、母は強し、です。

 

そしてね、いつか自分も死んじゃうんでしょうけど、そうしたら2人に、あれから何十年か分の話をしてあげようと思うんです。

 

 つらいお別れだったけれど、私、負けないで頑張ったよって。全力で生き抜いたよって。本当は孫の顔を見せたかったし、抱っこさせてあげたかったし、一緒に旅行したかったけど、ごめんねって。その分、私が笑顔にさせたし、いっぱい抱きしめたし、楽しい所にいっぱい連れて行ったからって。

 

 見ててくれた?って。


また、会えますよねえ、記者さん。お父ちゃんと、お母ちゃんに。


(日下洋子・完)

 

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(9)福田建設~日下洋子のウエディングドレス

 

「あなたの家を、理想の形に福田建設」

 

夫の隆にキャッチフレーズ入りの名刺を差し出した男は、社名をそのまま体現したような、がっちりした体躯と福々しい顔の持ち主だった。福田禎一と名乗った。洋子と隆はN市北西部の丘陵地帯に土地を買うと、その足で福田建設へと向かったのだった。

 

市内にも地元新聞社とテレビ局の冠が付いた住宅展示場があり、主に東京に本社を置く十数社ものメーカーがひしめき合っていた。土地購入前に一度覗きに行ってみたが、「被災者向けバリュープラン」やら「今なら坪単価35万円」などの売り文句を記した桃太郎旗やチラシが至る所に並び、辟易とした。

 

「震災特需ってやつか。何だかやりきれない気持ちになるなあ」。隆のその一言は、その当時の地元住民の気持ちを代弁するものだった。

 

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国内建設業は折から続く不景気のあおりを受け、財政規律を守ろうとするがための公共事業縮小の余波もあって、多くが立ち行かなくなりつつあった。建設事業に見切りをつけ、異分野に乗り出す会社も無数にあった。東北地方のインフラや家屋をずたずたにした東日本大震災は、降って湧いたような好景気に違いなかった。

 

実際、土や建設資材を運ぶダンプカーの運転手は引く手あまたで、1日に5~6万円以上が保証されたと聞いた。おかげでS市繁華街の飲食店は建設業者でプチバブルの様相を呈した。人気店ともなると地元住民が予約も取れない有り様で、「景気が良いのは結構だけんとも、地元からすりゃ『何だかなあ』って思うわな」と悪態も聞こえてきた。


洋子が家を購入しようとした頃は、そうした熱も冷めていた。東京でオリンピックの誘致が決まったためで、選手村建設だとかで潮が引くようにバブルのあだ花は見られなくなった。人の不幸を金に換え、移り気にまた別の土地へと飛んでいく。そんなようにも映る建設業者に、大切な家を任せようとは露ほども考えなかった。

 

幸い、勤めていた会社の社屋を手掛けた会社が地元の中堅建設だった。住宅部門もあるというので打診したところ、社長自らが話を伺いたいと言ってきた。福田だった。

 

「いやあ、震災前は公共事業もあまりなくってね。そっちばっかりじゃ食っていけないってんで、住宅部門も立ち上げたんです。でも、この忙しさでしょう。開店休業状態ってやつになってたんですが、ご事情を伺ったものですから」

 

ずいぶんと如才ない社長だ。寡聞にして知らないが、建設会社の社長というのは、こうしたタイプが多いのだろうか。ぷるぷると揺れる福田の耳たぶを見詰めながら、洋子はお腹のボタンが弾け飛びそうな作業着に身を包んだこの男が次第に好ましく思えてきた。自身もN市の南隣、I市の沿岸部で被災したという点も、洋子たちの思いを酌み取ってくれそうに思えた。

 

「二度と津波が来ないように山の上に土地を選んだ、と。だから後は、とにかく地震に強い構造で、ですね。分かりました。それで、奥さんのご両親の仏間も造ってほしいということでしたが、一つご提案があるんですよ」


福田はそう言って、簡易版だとする設計図を示した。見ると、玄関を入ってすぐの右手に仏間がある。仏間に沿って、玄関から奥のリビングまで伸びた廊下。その行き当たり、仏間と廊下の隅に、両者をつなげる三角形のスペースが設けられていた。吹き出しに、「壁面:透明アクリル」と指示されている。

 

「ここにマネキンを置いて、奥さんのウエディングドレスを飾りませんか。玄関を開けるたびに目に入るし、何より、遺影からも見えるでしょう」


奥さん、感激するのは完成してからにしましょうやと、福田がハンカチを手渡してきた。アイロンの効いた、きれいなワイン色の1枚だった。


(続)

 

             

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(8)49日後~日下洋子のウエディングドレス

 

6年が過ぎた。

 

不惑を数えた洋子が台所仕事に精を出していると、2人の子どもが駆け寄ってきて、膝元でじゃれ合った。まもなく5歳になる女の子と、3歳の男の子。洋服への思いは断ちがたかったが、仕事はきっぱり辞め、子育てに専念してきた。

 

女の子には母の芳江から一字をもらい、「芳乃香」と名付けた。ほのか、と読ませる。芳しい香りがする日だまりのような、人を癒やすことのできる素敵な女性になってほしいと願いを込めた。芳江のように。

 

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芳江と父の喜一郎を見送ったのは、あの大津波から半月ほどしてからだった。

 

N市は海沿いにあった斎場も被災しており、海水や泥、がれきが入った火葬炉を復旧させる必要があった。あまりに多くの人間が一時に犠牲になったこともあり、いったん土葬することを決めた市もあったようだが、再び掘り出して火葬する「改葬」は遺族を2度悲しませる。N市では炉を応急復旧させる方針が取られていた。

 

「キいっちゃんには、えれえ世話んなってねえ」

 

炉の扉が閉められた後、たまりかねたように場長だという男性が近寄ってきた。2人とも沿岸部の出身だったことから、市議会議員と市役所職員という関係を越えた付き合いがあったそうだ。芳江とは小、中と同級生だったという。

 

こんな時、他人から死者の人物評を聞くほど辛いことはない。火葬場にいるのに、おかしな話には違いないが、肉親の唐突な死を考えまいとする自分もいる。「お忙しいところ、ありがとうございます」。意図を酌み取ったのか、場長は後味の悪そうな顔で職務へと戻っていった。実際、仕事は山のようにあるようだった。

 

斎場の煙突から出る煙を眺めてから1カ月ほどした頃、洋子は医師に妊娠を告げられた。このところ、ずっと体調不良で、心労のせいかとも考えたが、吐き気が日増しに募ることから婦人科を受診したのだった。

 

「49日、経ったがんなあ。キいっちゃんが、芳江さんだが、どっちがの生まれ変わりがもしゃねな」

 

当然、まだ性別は分からないが、そうか、その可能性はある。いや、あると思いたかった。基礎だけとなった実家跡のように、何の感情の起伏もなくなっていた洋子の心に、ある種の明かりが灯った瞬間だった。

 

ほどなくして女の子だと判明した。「あー、くっきり線が見えるわ」。お腹にエコーの機械を当てる医師が、返答に困る表現で性別を教えてくれた。芳江の生まれ変わりに違いない。気持ちが浮き立つのが分かった。

 

十月十日を経て洋子は元気な女の子を抱き、大津波の後、夫婦二人きりで過ごしてきた白黒写真のような生活に色味が宿った。さらに数年して男の子(喜一郎から一字拝借して「瑛喜」と命名した)も産声を上げ、S市のマンションはさらににぎやかになった。

 

「お前さえ良ければなんだけど。家、建てないか? できれば、N市にさ」

 

子どもたちが寝静まったある晩、夫の隆がそう切り出した。にぎやかなのは良いものの、マンションが手狭になってきたのも確かだった。S市の生まれで、マンション暮らししか経験のない隆の気遣いが、何よりうれしかった。

 

ずっと気になっていたこともあった。子育てに追われ、家の狭さを言い訳にして、仏壇もないまま遺影と位牌を片隅に追いやっていたことだ。

 

衣装ダンスに仕舞ったままにしていた唯一の遺品、ウエディングドレスの存在も宙に浮いていた。


(続)

 

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(7)芳江の嫁入り~日下洋子のウエディングドレス

 

母の芳江は、お気に入りのワイン色のセーターを身に着けていた。「華やかで女性って感じの色じゃない?」。その色がとにかく好きで、洋服はもちろん、靴や傘、財布、キーホルダーとそろえ、出掛ける時はどれかしらを持っていったものだった。

 

「避難するっていう時にも、そのセーターを選んだのね」。赤系統の色味だけに、皮膚の白さが際立つ。幸いなことに父の喜一郎と違って泥や傷は見当たらず、洋子は胸をなで下ろした。男だからいい、というものではないにせよ、顔に傷ができるのは同じ女として耐えがたい気がした。

 

近所にあった工務店の重機の下で見つかったという芳江。津波の通り道となったのだろう、その重機の下では何人もの住民が折り重なるようにして亡くなっていた。ちょうど、あの歩道橋の階段のような場所だったのだろうか。犠牲者の中には幼馴染の紀美子さんもいたと聞き、洋子はほんの少しだけ救われる気がした。二人して避難の途中だったのだろうか。

 

顔にかかった髪の毛を耳にかけてあげながら、洋子は芳江に話し掛けた。「最後まで紀美子さんと一緒で良かったね」。白い皮膚は氷のように冷たかった。


芳江は1949年、今も暮らすN市沿岸部に生まれた。父親は漁師だったが、芳江が四つの時、漁に出たまま帰らぬ人となった。「漁師は板子1枚下は地獄だがんね」。達観したような母親の態度に違和感を感じたものだったが、酔っては暴れ、母親を困らせる男だったと後に聞き、妙に納得した。

 

父親の死で家庭には穏やかな時間が流れたが、当然ながら家計は逼迫した。公園の水を飲んで空腹をまぎらわせるほどで、小学生にしてハンカチに刺繍を施す母親の内職作業を手伝うようになり、結果として裁縫の技術が身に付いた。刺繍に集中している時だけは空腹を忘れることができたのも大きかった。中学を出るとすぐ、隣町のS市の縫製会社に就職したのは自然な流れだった。

 

漁師町の子どもは小中とも全員、同じ学校に通った。芳江も喜一郎の3学年下で、同時期に学び舎で過ごした。もともと喜一郎が見初めたらしく、醤油や卵など大友雑貨店の商品を差し入れては気を引こうとしたと聞いた。プレゼント作戦が功を奏したのは1975年のことだった。

 

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芳江は喜一郎と一緒になると縫製会社を辞め、雑貨店を手伝いながら店裏の離れで裁縫教室を始めた。まだまだ着物が幅を利かせていた時代。近所の奥さん連中に洋裁を手ほどきするというのがウリだったが、内実は専業主婦の息抜きの場所だった。

 

カラフルな布を裁ち、きれいな洋服に仕立てていく様を見るのは幼い洋子にとっても楽しく、成長するにつれて入り浸るようになった。今のアパレル系商社勤めの原点はおそらく、この場所にあったのだろう。

 

洋子の結婚が決まると、芳江は自分の着物の中でも一番のお気に入りを解いてウエディングドレスに仕立てた。明るい銀色に近い白地に、ワイン色の差し色が入った華やかな布地で、洋子も一目で気に入った。芳江の嫁入りに際し、祖母が注文した着物だったという。

 

「母さんの家、貧乏だったんだけどね、お父さんと一緒になる時におばあちゃんがくれたの。生活は苦しくても、娘の晴れ着代だけはため続けてくれてたんだね。私それ聞いて、自分の娘にもこれ着せるんだって決めてたの」


その芳江は今、同じく冷たくなった喜一郎のそばに横たわる。あまりに多くのことが重なりすぎたし、在りし日の思い出は濃すぎて、飲み込めるはずなどない。病気煩いの末にというケースと異なり、事故死は突然なだけに遺族が受け入れられないものだと聞いたことがあるが、二人の肌の冷たさは疑いようのない現実でもあった。


両親も、帰る家も、思い出の品も全てなくなってしまった。洋子の家にしまってある、あのウエディングドレスを除いて。


(続)

 

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(6)キいっちゃん~日下洋子のウエディングドレス

 

洋子の父、大友喜一郎は1947年、N市海沿いの漁師町に生まれた。実父は旧陸軍の所属で、集落にあった高さ約6メートルの丘の上で海を監視し、敵軍が押し寄せてこないかどうか目を光らせる仕事に就いていたが、終戦とともに闇市から仕入れた物資を転売する商いに転じた。今も続く大友雑貨店の初代になる。

 

物のない時代、実父の仕入れてくる物資は近隣住民にとって宝の山で、多くの漁師たちが刺身や干物、貝類などの海の幸と交換していった。それら海産物を隣町で人口の多いS市に運び、現金に換え、闇市での資金に充てるという好循環が商いを大きくした。

 

いきおい、大友雑貨店には多くの人が訪れるようになり、社交場のようになる。そうした環境が、後まで続く喜一郎の社交的な性格を形作った。

 

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100人がいたら100人が、喜一郎と言えば笑顔だと答えた。戦後の混乱期にカネとモノがある家に生まれれば、やっかみの対象にもなる。子供の世界でも、今で言ういじめに通じる暴力や冷遇が日常茶飯事だった。多くの人間が飢えに苦しんでいて、子どもも畑から野菜を抜いたり、うまいとされた赤犬を捕まえたりして空腹を紛らわせた時代。笑い顔が苦境を切り抜けるツールになると、体で学んだ結果だった。

 

長じるにつれ、周りに人の輪が絶えない青年に育った。家に鍵も掛けないような濃密な人間関係が支配する街では、それだけに諍いも多い。そうした揉め事のほとんどが喜一郎の元に持ち込まれ、恵比須顔で間に入ることで人脈がさらに拡大していった。消防団青年団の中核メンバーとして、街の祭礼の一切を仕切っていたのも大きかった。

 

不惑をいくつか過ぎた頃に市議会議員に推されると、あれよあれよと言う間に議場の人となった。持ち前の人当たりの良さと人脈、交渉力が最大限に生きたと言ってよく、初当選にして議員22人中の最多得票を数えた。そのまま4期、トップ当選を果たし、人をして来期は議長確実と言わしめた。

 

そうした立場が足かせとなった。

 

洋子が後に生存者に聞いたところでは、喜一郎は大地震の後、壊れた酒瓶の始末など雑貨店の後片付けに追われていた。そうしたところ、店内の天井付近に設置してあったテレビが津波警報を伝えた。喜一郎はN市役所に事実確認を取った上で妻芳江に避難するよう言い含め、避難誘導に当たるため店近くの消防出張所に出掛けて行った。

 

N市沿岸部の津波到達時刻は地震の約50分後。喜一郎はその間、ずっと路上に立って内陸側に避難するよう声を張り上げていたという。

 

「何だが選挙ん時の演説みでに見えでな。緊急時には違いねんだげっど、キいっちゃん見だらスッと落ち着いだんだわ」

 

遺体は、丘のそばで見つかった。「丘さ登れば大丈夫と思って、自分は逃げなかったんだべな。キいっちゃんらすぃわ」。津波は丘ごと呑み込んだ。9メートル近い大波だったと聞いた。

 

洋子は遺体安置所で喜一郎の顔についた泥を拭き落としながら、最後に交わした会話を思い出していた。確か夫の隆と結婚して3年が経とうとしていた頃だったと思う。

 

「隆君、洋子は料理どが洗濯だが、やってるがい? こいづは小学校ぐれがらアイドルだ洋服だってばっかりで、そういう方面はからっきしだったから」などと言っては、洋子をからかってきた。

 

続けて、「あとは孫だなやあ。議会でも消防団でも同世代との会話は孫と病気のことばっかりでや。こいづは内緒だげんど、議長さなったら孫抱いで議長席さ座ってみでんだやあ」。随分と直截な物言いに隆も返事に窮し、芳江が喜一郎をたしなめたものだった。

 

あの時は余計なお世話だと憤慨し、隆の手を引いてすぐに帰宅してしまったが、今となっては後悔ばかりが先に立つ。「洋服のことばっかり」は今でもそうで、仕事が楽しいからと子作りを後回しにしてきたことが悔やまれた。

 

「日下さん」

 

物思いにふけっていると、安置所に詰めていた警察官が近づいてきた。思えば彼らも、商売とはいえ大変だ。発災から3日目になるが、おそらく一睡もしていないのだろう。顔が土気色に近かった。

 

「日下さん、お掛けする言葉もないんですが…」

 

体調の悪そうな彼の、心の底から気の毒そうな顔を見て、洋子は全てを察した。

 

しばらくして、芳江の遺体が担ぎ込まれた。

 

(続)

 

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(5)大友雑貨店跡~日下洋子のウエディングドレス

 

  かつて、そこに雑貨店が存在した。漁港に面した5000人ほどが暮らす街の「冷蔵庫」だった。

 

 野菜も肉も、日用品も扱う言わば何でも屋だったが、漁港が近いのに魚だけは置いていなかった。理由は、ほとんどの住民が何かしらの形で漁業に関わっているような土地柄にある。家を留守にして戻ると、食卓の上に生の魚が数匹載せてあって、「いっぺ手に入ったがら。 太田」なんて近所の人の置手紙がある集落だった。どこの家も鍵を掛ける習慣はなかった。

 

 酒にタバコ、切手に駄菓子だって扱っていたから、老若男女問わず、朝から晩まで誰かしらが入れ替わり立ち代わりやって来る場所。それが洋子の実家だった。

 

 今、泥だらけの洋子の前には、何もない。正確には実家の間取りがハッキリと分かる布基礎が残り、あとは実家のどこかしらの端材が少しと、横倒しになった自転車が1台あるのみ。会社を飛び出し、一昼夜もさまよってまで探したかった両親の姿はどこにも見当たらなかった。

 

 「大友雑貨店」。銀色の自転車の荷台脇には、父が昔、赤いペンキで書いた店名のプレートが残っていた。大友は洋子の旧姓だ。醤油や酒を配達する父の背にしがみつき、荷台で揺られた幼い時分が蘇る。セピア色に染まった記憶が、父親や母親への思慕をさらに募らせる。

 

 「何で自転車が残っていて、人間はいないのよ…」。泥だらけのプレートを見やり、独り言ちた。

 

 歩道橋の階段に折り重なっていた人たちは、そのままにしてきた。数えたわけではないが10人ほどいて、女手一つでどうこうできるものではないと思った。不謹慎には違いないが、他人よりも肉親の行方だ。非常時なのだと言い聞かせ、かつての家路を急いだ結果が自転車1台だった。

 

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 しばらく、そのままたたずんでいたが、次第に日が陰ってきた。海のそばだけに風も強く、寒さが堪える。いったん夫の元に戻ろうかと考えた時、声が掛かった。

 

 「住民の方ですか? 再び津波が来る可能性があります。至急、避難所に戻ってください!」

 

 N市の消防団だった。沿岸部の地元分団員は行方不明者も多いので、内陸部の分団が肩代わりして捜索や救助に当たっているのだと言っていた。やはり大勢の人が亡くなったのだー。洋子は再び強い不安に襲われたが、「避難所」という言葉に一縷の望みをつなぎ、向かってみることにした。

 

 消防団の車に同乗して向かった避難所は人でごった返していた。洋子も通った小学校で、皆、床に直に座り、寝ている人もいた。トイレも大混雑していて、特に女子の方には長い列ができていた。「これだけ大勢の住民がいるなら」。少しは楽観的になれたが、一通り見て回っても両親の姿は見えない。ほかの住民同様、入り口に近いところの壁に張り紙をし、探している両親の名前と自分の携帯の番号、「心配しています。連絡ください」と書き置いた。

 

 しばらく待って、迎えに来てくれた夫の車に乗って自宅に戻った。電気やガス、水道こそ止まっていたものの、泥やがれきといった津波の痕跡すら見当たらないS市内を目にし、わずか15キロの間に天国と地獄の境目があると感じずにはいられなかった。

 

 夫によると、それでも食料や水を求める人たちがスーパーに群がっていたり、ガソリンスタンドに入りきれない車が車道脇にずらっと並んだりする光景が広がっていたという。勤務するアパレル系商社では被害こそなかったものの、幾人かの社員の親族が犠牲になり、休暇を取っていると聞かされた。

 

 「犠牲…」。昨日なら信じられなかった言葉も、何人もの遺体を目にした今は受け入れざるを得なかった。そして、どうか両親は無事でありますようにと願わずにはいられなかった。

 

 丸二日寝ていない状態で駆けずり回ったのと、自宅に戻れた安心感から、徐々に眠くなってきた。停電で暖房器具が使えず、布団にくるまっていたことも睡魔を強力にしたようだ。ウトウトし始めたところに、けたたましく携帯が鳴った。

 

 「日下洋子さんのお電話でしょうか。こちらはI警察署です。申し上げにくいのですが…」

 

 父が遺体で見つかった。

 

(続) 

 

 

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